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阿波郡


荘園制下の当郡は久千田荘・東拝師荘・西拝師荘・秋月荘・国衙領郡原に分割されていた。久千田荘は「吾妻鏡」文治2年6月9日条に「阿波国久千田庄者,父為清法師相伝領也,何有他地頭哉」とみえるのが初見で(国史大系),遅くとも鎌倉初期には成立していたようであるが,その詳細については不明。同荘は現在の阿波町久千田に比定される。東拝師荘・西拝師荘の両荘は,「和名抄」に見える拝師郷の地に立てられた荘園が東西に分割されて成立したとみられる。東拝師荘は,鎌倉末期と推定される年未詳の阿波国観音寺訴状案(早稲田大学所蔵文書/鎌遺18313)に「阿波国観音寺・東拝師両庄」と見えるのが唯一の史料。同荘は現在の阿波町東林の地域に比定されるが,詳細については不明。西拝師荘は,文安3年3月17日の年紀のある筒井清八蔵鐘銘(日本古鐘銘集成)に「阿州西拝師庄 広棚村善福寺」とあるのが史料上の初見であるが,東拝師荘が成立していた鎌倉期には西拝師荘も成立していたとみられる。同荘は現在の阿波町西林の地域に比定されるが,領主など詳細については不詳。秋月荘は現在は板野郡に属する土成町秋月にその名を伝える宣陽門院領荘園であるが,その荘域は「和名抄」阿波郡四郷の1つである秋月郷の地域を占めたとみられる。鎌倉初期のものとみられる宣陽門院所領目録(島田文書/鎌遺3274)に上西門院より宣陽門院に譲られた新御領の1つとして同荘の名がみえるのが初見である。同荘は南北朝期には荘内に軍府(のち守護所)を置いた細川氏によって支配され,嘉慶元年11月26日の細川頼有譲状(細川家文書中世編)では当荘の3分の1が和泉半国守護家細川氏の本領と称されている。その荘域は前記の秋月を含む土成町の西部一帯から現在の阿波郡市場町に及んでいた。郡原は南北朝期の正平16年4月1日出雲守時有奉書(菅生文書/徴古雑抄2)に「阿波国郡原国衙分」とみえる国衙領で,同年に祖谷山【いややま】の菅生氏の氏神菅生八幡宮に寄進されている。現在の土成町郡がその遺称と考えられているが,詳細については不詳である。建武3年に足利尊氏の命によって阿波に渡った細川氏が当郡内の秋月に軍府を構えたのは,秋月荘が足利氏の所領であったためと考えられるが(倉持文書/鎌遺18447),同地は細川氏が室町幕府の阿波国守護に任じられたために,守護所として発展した。細川和氏が夢窓疎石を招いて補陀寺を建立したのをはじめ,宝冠寺・光勝院などの寺院が営まれて,五山の学僧が来住したため,当時の宗教・文化の拠点ともなった。現在の秋月城跡が細川氏の居館跡といわれ,空堀に囲まれた本丸跡が残る。また,現在の輪蔵庵は補陀寺の経蔵があった所といわれ,境内には細川和氏の墓と伝えられる宝篋印塔が現存する。細川氏の守護所は後に現在の板野郡藍住【あいずみ】町勝瑞の地に移転したため,その後は細川氏の被官となっていた秋月氏が秋月城を守った。秋月氏は秋月荘の在地領主であったと考えられる氏族であるが,細川氏の秋月入部とともに同氏の有力被官として重用され,讃岐国の守護代にも登用されている。郡内の主な中世寺院としては上述のほかに,秋月荘内に切幡寺・法林寺,久千田荘内に善福寺・瑠璃寺などがあった。正中2年4月21日には切畑寺院主法眼尊忍が,高野山灌頂院に水田を寄進しており(高野山文書/大日古1-1),また,応永19年8月18日に供養が行われた北野社一切経(大報恩寺所蔵/大日料7-16)の書写に際して,法林寺・善福寺・瑠璃寺の僧侶が加わっていたこともわかる。戦国期には当郡内にも多くの城が築かれた。鎌倉幕府の御家人伊沢四郎家景の子孫とされる伊沢氏の居城伊沢城(現阿波町伊沢),南北朝期に久千田荘の地頭職を南朝から安堵された(小野寺文書/徴古雑抄2)小野寺氏の居城と伝えられる朽田城(現阿波町森沢),三橋氏の拠った西林城(現阿波町西林),戦国末期の武将として著名な松永久秀の城と伝承される犬墓城(現市場町犬墓),原田氏の居城山野上城(現市場町山野上),秋月氏の拠った秋月城などがその主要なものであった。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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