阿波郡

天正13年当郡は蜂須賀氏の領有下に入った。当郡の石高・村数は,寛文4年の高辻帳7,758石余・30か村うち枝村1,「天保郷帳」1万704石余・32か村,「旧高旧領」1万2,667石余・31か村。「阿波志」によれば,元禄年間には石高7,873石余・村数32,寛政年間の反別2,407町2反余,石高1万268石余,戸数3,928・人数2万2,211。当郡の村々のほぼ中央に位置する市場村は在郷町として発展し,郡の中心地となった。慶安3年領内巡視を行った藩主蜂須賀忠英は,未開の原野の多い当郡に,その開発と讃岐国境警備を兼ねた在村の郷士を配置することを家老長谷川越前に命じた。「異本阿波志」によると,忠英は西条原・柿原・加々美原・市場原の4か所の原に,阿波国にいる浪人100人に知行地を与え藩士に登用することを計画している。徳島藩特有のこの屯田兵的な武士団は原士と呼ばれ,浪人のほか有力農民のなかからも選ばれており,「阿淡年表秘録」では同年閏10月条に原士が60人となり,当郡西条原・香々美原で屋敷地が与えられたことが見える(県史料1)。原士本人嫡子年齢住居郡村改指出帳(県史3)によると,嘉永7年には原士55軒のうち36軒が当郡に居住し,柿原村16軒が最多となっている。幕末期に幕府に命じられて徳島藩が,江戸湾の羽田・大森の海岸を防備した際には,その大半を当郡の原士が勤めた。「阿波志」に見える土産は,藍・香魚・土殷孽・斑竹・金燧・河漏。主として吉野川流域の平野部は藍作地帯であり,北の山麓部では安永年間から阿波三盆糖の産地となった。御国中村々甘蔗植付砂糖製作調一巻によれば,文政2年には当郡の26か村の名が記され,甘蔗植付反別は41町6反余,砂糖製産高13万5,437斤(県史4)。藍・砂糖はともに藩の特産として藩外に広範な市場を有した。徳島藩政下で最大の一揆となった天保13年の上郡一揆では,当郡の香々美村・大俣村も砂糖に対する租税増額に反対するとともに,村役人や裁判に関する不正を糾弾する打毀が発生した。山麓部を通る撫養街道は四国霊場八十八か所の遍路道で,その第8番札所熊谷寺・第9番札所法輪寺・第10番札所切幡寺があり,春・秋には他国から大勢の遍路が往来してにぎわい,地元ではこれを接待する風習が盛んであった。寛保神社帳(続徴古雑抄1)によると当郡の神社数59,そのほとんどは神主か社人が存在し,別当寺などを記す神社は少ない。明治4年徳島県,同年名東【みようどう】県,同9年高知県を経て,同13年再び徳島県に所属。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7426983 |





