一宇村(近代)

明治22年~現在の美馬郡の自治体名。一宇口山・一宇奥山の2か村が合併して成立。旧村名を継承した2大字を編成。役場は一宇口山の古見に設置された。明治24年の戸数1,155・人口5,191(男2,726・女2,465),厩290,寺4,学校4(徴発物件一覧表)。明治23年一宇奥山の議員により当村からの分離独立論が打ち出され紛争が続いた。このため大正12年大字は廃された。明治35年郡道一宇街道の開発に着手。日露戦争のため工事中止となったが,同42年八ツ塚まで開通,大正4年県道に昇格,さらに字河内まで開通,同8年竣工した。この道路は貞光との距離を一挙に縮め,当村の産業・経済・文化の向上の基盤となり,沿線には古見・切越などの集落をつくった。同12年には初めてシボレー製の幌型乗用車も通いはじめた。農林業は耕地が13%しかなく,急峻な傾斜地か谷間の深田で生産性が低く,特に米は貴重品であった。焼畑もかなり残っていたといわれる。残りの87%は山林で輸送方法のない当時は市場価値はなかった。明治25年の農林生産物は生産額の大きい順に葉煙草・里芋・材木・ソバ,一宇の特産物で干柿を荒縄でくるんだ巻柿,トウモロコシ・コンニャク玉などがあげられる。戸数・人口は同40年1,213・5,829(男2,915・女2,914),大正2年1,244・6,270(男3,152・女3,118)。同9年の世帯数1,279・人口6,264(男3,141・女3,123)。大正期の農作物は畑地の53%(約375町)に裸麦を中心に小麦・大麦を栽培,ついで葉煙草(1,470反)・甘藷(810反)・ソバ(660反)・コンニャク玉(351反)・葉藍(280反)・キビ(150反)・トウモロコシ(130反)・ヒエ(30反)・クリ(124反)・タケノコ(100反)などとなっている(一宇村史)。葉煙草は貞光村の刻み屋へ半分,残りを池田・辻・穴吹の刻み屋へ出荷した。明治31年から煙草専売制に移行し,一括納入するとともに品質検査などもあり,農民も一宇村煙草耕作組合を作り,経営を合理化して専売制に対応した。大正5年には杉材を中心とした用材6,020石・薪炭材7,000柵・木炭8万2,500貫などの林産物が生産されている。世帯数・人口は,昭和5年1,577・7,146(男3,871・女3,275),同15年1,384・6,661(男3,484・女3,177)とやや漸減傾向であった。昭和6年切越発電所が完成,一宇街道も昭和3年下宮神社まで開通,乗合バスも古見から河内まで延長され,同8年には一宇街道も剣橋まで開通,明治35年着工以来31年の歳月をかけて,当村民の悲願であった全線23.2kmが開通した。また土釜・古見・須貝瀬橋の架け替え,各集落を結ぶ幹線道路の整備がなされた。昭和前期の農林産物はその中心は煙草で,1,200~1,350反の畑に阿波葉を栽培していた。コンニャクは昭和元年350反の畑で生産され,シイタケ・コウゾ・ミツマタも栽培され,紙幣用原料紙となるミツマタは同8年には485反の畑に栽培されていた。ほかに干柿作りが行われていた。明治末年から養蚕も行われ,昭和10年256戸が35haに桑園をもち同年が最大となっている。麦・米・ソバなどは自給作物として栽培された。同年スギ材を中心とした用材1万4,928石・薪炭材2,300柵・木炭27万500石が生産されている。世帯数・人口は,同20年1,361・6,608(男2,643・女3,965),同25年1461・7,475(男3,790・女3,685),同35年1,437・7,070(男3,527・女3,543),同45年1,242・5,092(男2,518・女2,574)。高度経済成長に伴い家を挙げて離村するなど,過疎問題が生じてきており,昭和30年から同45年の間の減少率は村平均で34%となっている。昭和22年,一宇中学校が古見小学校に本校を置き,応能分校,錦谷・片川に分教場を置いて発足,同46年から統合され,古見に統合校舎を建築,同47年までに寄宿舎も完成したが生徒数は同52年度には昭和41年度の3分の1に減少している。小学校も同率で減少している。昭和23年県立美馬高校一宇分校が須貝瀬に設置され,同24年には県立穴吹高校一宇分校と改称され,同26年字太刀之本に新校舎が落成,現在に至っている。昭和20年代には白井林道・九藤中線・実平線の開設,同26年に剣橋の永久橋架替えが行われた。観光資源としては一宇峡があり,一宇川の流れが瀑布となって大石を穿った3つの釜状のくぼみがあり土釜とよばれ江戸期からの阿波の奇景で名所であったが,同29年関係町村とともに剣山国定公園指定期成同盟会を結成して運動を続けた結果,同39年国定公園に指定された。この剣山の観光開発のため,昭和34年から道路開発がなされ,同38年夫婦池まで完成,同39年見の越まで延長された。また同45年には同所から登山リフトも開設された。昭和41年夫婦池岸に国民宿舎剣山荘,同51年剣山スキー場,同52年村営温泉保養センター岩戸荘を開設するなど,当村は総合観光施設による観光開発に取り組んできた。また一宇川やその支流沿岸に集落があるため,地すべり地帯もあり,昭和20年の枕崎台風,同29年のジェーン台風,同34年の伊勢湾台風,同48年の18号台風などの台風襲来による災害も受けている。同50年の6号台風では1時間96mmの集中豪雨を受け,死者5人・重軽傷者8人・住家の流失10世帯・全壊29世帯などの被害を受け激甚災害地に指定され,災害救助法の適用を受けた。一宇街道も寸断され孤立した。昭和45年町役場の新庁舎が字赤松に竣工,移転している。主な産業である農業についてみると,昭和35年に1,017戸であった農家数が昭和50年には633戸と減少し,昭和35年の専業農家54.1%,第1種兼業農家21.1%,第2種兼業農家24.9%に対し,同50年にはそれぞれ12.6%・11.9%・75.5%となり,第2種兼業農家が多くなっている。林業に従事したり,日雇稼ぎ,出稼ぎなどで生活することが多い。作物は葉煙草が中心であったが煙草の作付面積は昭和29年の67haから同45年39ha,同50年13haに減少している。茶は増加傾向にあり,昭和40年に生葉60tが同50年生葉100tとなっている。養蚕も増加傾向にあり,昭和41年1,426a・収繭量4,170kgから同50年には3,700a,1万2,782kgとなっている。柿は干柿用の一宇大和を生産し,特産の巻柿に加工されている。ウメ・クリも栽培が奨励されている。野菜は高地ものや馬鈴薯。米・麦の生産は減少の一途をたどっているが,同年頃から麦の生産は減少していない。畜産では種鶏用卵の生産がみられ,肥育牛の飼育は衰微している。昭和50年度の生産額からみれば額が大きい順に葉煙草・野菜・イモ類の生産,畜産・養蚕となっている。林業は同年に国有林1,752ha・公有林289ha・私有林が6,969haであり,村外地主も多く,村民では1ha未満45.3%を占め,平均5.5haとなっており,昭和46年の1万2,359m[sup]2[/sup]での粗材生産以降,最近の木材価格の低迷により同50年には4,340m[sup]2[/sup]での生産にとどまっている。世帯数・人口は,同55年967・2,929(男1,417・女1,512),同59年964・2,710(男1,332・女1,378)となっており,昭和40年頃に比べ半分以下の人口となっている。若年層の流出による過疎化が著しいが,高地に適した農業の振興,林業開発,アメゴ・マスの養殖,さらには剣山国定公園を中心とした自然休養村としての観光開発の推進などが行われている。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7427054 |