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大須村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。はじめ板東郡,寛文4年からは板野郡のうち。嘉永2年の阿波国郡村付并ニ御陣屋御番所(鳴門市史)では新村のうちに見える。徳島藩領。村高は,「天保郷帳」では古くは「大津村」とあり45石余,「旧高旧領」45石余ですべて蔵入地。なお,当村は寛文4年の高辻帳,享保元年の高辻帳,天明7年の高辻帳には見えない。「阿波志」によれば,「大洲」と見え,土田は上,陸田100分の65・水田100分の35,反別4町5反余,村高39石,家数23。寛政7年の「鳴門辺集」によると,北島忠兵衛が,当初阿讃国境の番人として1人で当地に居住していたが,その後村が形成されて庄屋役兼帯を任命され,それが数代続いているとある。また文化6年の棟附帳(板野郡誌)では「先年より川口御番庄屋役等相勤居申候」と見え川口番所役人との兼帯となっている。嘉永2年の阿波国郡村付并ニ御陣屋御番所(鳴門市史)には当村は新村のうちに記され,枝郷として碁ノ浦が見え,当村浜に見張番所がある。産業は,「耕作漁業山挊船挊ニ而渡世仕候」(鳴門辺集)とあるように,農業・漁業・林業・廻船業などを行った。漁獲物には鯛・鯔・鱸・鰶・蛸・目張などの魚類,蛽・貽貝などの貝類,和布・布海苔・海髪・水雲などの海藻があったという(鳴門市史)。江戸期には島田島北端の室村から阿波・讃岐の国境にかけての北浦漁場は讃岐国引田浦などとの入会になっており,寛永18年には讃岐国引田浦などが当村などに対して阿讃の国境と漁場の入会について確認している(同前)。しかし,阿波国では地先海面(地網代)と沖合い(沖網代)の入会漁権の区別が不明確であったために,地網代の専漁権が侵害されることが多く,引田浦との間でたびたび紛争が起こっている(同前)。幕末頃からは漁船に風力・潮力を利用して漁具を引き回す打瀬網漁業が行われ,エビ・雑魚などを漁獲した(同前)。当村の林業は,主に製塩燃料である柴薪を撫養地方の塩浜へ移出していたが,文化4年頃同地方の塩田に石炭焚の技術が伝来・普及すると柴薪の値が下落して売行不振となった。そのため文政8年頃当地方の住民の一部は郡代に願い出て,竹瀬村の御銀主木内兵衛門から融資を受けて織物をはじめたが長続きしなかった(同前)。天保5年には困窮も深まり,当地方が山海によって生計を維持しているとはいえ,「漁業船稼之者ハ漸弐歩通位之義故,山稼相衰候而ハ忽凌方無御座」などという状態であった(同前)。地内には大須神社があり,別当寺は折野村の鬼骨寺であった。明治4年徳島県,同年名東【みようどう】県,同9年高知県を経て,同13年再び徳島県に所属。明治9年調の戸数26・人数165うち男87・女78,船数は50石未満荷船1・漁船18,明治初期の物産は米・麦・薪・鰯・鰹・魬で,特に魚類は他郡へも売られており,職業別戸数は農業15・漁雑兼業9(板野郡村誌)。同22年北灘村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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