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岡崎村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。はじめ板東郡,寛文4年からは板野郡のうち。当村はもとは林崎村と1村であったという(板野郡誌)。撫養24か村浦の1つ。享保16年の板野阿波美馬三好四郡村付帳(鳴門市史)に「但郷村御帳ニハ新村と御座候」とあり,嘉永2年の阿波国郡村付并ニ御陣屋御番所(同前)には「林崎浦」枝郷として見える。徳島藩領。村高は,「旧高旧領」64石余ですべて蔵入地。なお,当村は寛文4年の高辻帳,享保元年の高辻帳,天明7年の高辻帳,「天保郷帳」には見えない。江戸中期の「鳴門記」によると,反別は畑4町4反余,高45石余,物成18石余,家数103・人数475うち男232・女243(同前)。「阿波志」によれば,土田は三等,反別5町7反余,村高65石,家数107。寛政7年の「鳴門辺集」には当地について,天正年間に四宮関之丞が開基し,「拾四軒屋」と称したといい,「諸商売船挊ニ而渡世仕外ニ産業産物無シ」とある。文政11年の撫養庄屋共之内旧家成立庄屋役相続之運申上書(鳴門市史)によると,当時当村に組頭庄屋田淵岡兵衛がいる。同文書によると元禄6年庄屋弥助が闕所となり,跡役とされた北浜村庄屋次兵衛(4代目)は長男清太夫を北浜村庄屋とし,次男を連れて当地に移った。なお,「鳴門辺集」では弥助は慶安年間に渡海人切手の誤りで追放されたという。その後次兵衛家は藩主の鷹狩に際して当村へ滞留した時の接待などにより,野合御目見を申し付けられ,代々庄屋役を相続した。文化13年同家8代目岡兵衛が組頭庄屋助役,文政5年同本役となっている。当村の岡崎港は林崎港とならんで,阿波の入り口である撫養港の中心部であり,林崎港が商業港としての役割を担ったのに対し,岡崎港は船や人々の出入りを監視する政治的な役目を持っていた。このため,藩では地内の岡崎通町の浜手に屋敷を造営し,淡路伝いの参勤交代の休憩所として利用するとともに,十人衆を常駐させて交通の取締りにあたらせた。十人衆とは,明和7年の先祖成立書(鳴門市史)によると天正14年に林崎と里浦から各々5人の優秀な船頭が選ばれ,木津から淡路の福良へ渡海する役につき,同19年その家宅が木津から当地へ移された。勤務は,阿淡渡海の実務(操船)や往来切手の改め,御上使巡国の際の警備,藩主の参勤交代(淡路伝い)の時の船頭役などで,有事には岡崎口と粟津河口の警備を勤め,海難救助なども行った。彼らは苗字帯刀を許され,それぞれ5石3人扶持を下知されていた。この十人衆の総取締役である岡崎屋敷輪番は文化4年同番手,のち撫養屋敷番手と改称され,平士(御馬廻り・御手廻りとも呼ばれる)が任命され,その任期は5年間であった。また,十人衆が操船を行う屋敷支配の船を入れた船屋も置かれていた(鳴門辺集)。安宅御用控(鳴門市史)によると,ここには5枚帆小早船1・3枚帆同船1・4枚帆渡船2・かん取船1の合計5艘が常備されていた。そのほか,地内には出入りの船や貨物を取り締まる川口番所や,小鳴門海峡の対岸にある土佐泊港とを往復する岡崎渡しなどがあった。江戸期以降岡崎港を起点とする撫養街道沿いに商家が建ち並び,港町として発展した。当初は,寂れた場所だったが,寛文元年から2か年の間,岡崎茶屋のまわり30軒について年300石(1軒あたり10石あて),それ以後は年150石ずつ上方酒の販売を許可したため(阿淡御条目/県史料2),船頭・水主・塩田稼などが集まるようになった。宝暦12年に上方酒の販売が禁止されたので地酒に代わったものの,「所々酒店看板ハ岡崎より出ル」(鳴門辺集)というほど当村の商業として定着した。また,当村をはじめ林崎浦・弁財天村などには帆指し女がおり,安政2年の「鳴門夢路記」によると「浮女なと数多ありて件の船にもゆきかよふよし,さはあれと公よりはゆるしなきまゝ表は商人船の帆なと破れたるをつゞりさす業もておのもおのも頭のかみにはりなんさしゐけるよし,号て帆ざし女といふとなん」とある(鳴門市史)。「鳴門記」には大坂廻船6艘が記され,廻船業や造船業なども盛んで,特に造船業は,大型船の建造ができるこの地方唯一の場所であったといわれている(同前)。地内の西宮神社には慶長9年の棟札があり,当時は岡崎大明神と呼ばれ,享保年間に現在の名に改称されたという(県神社誌)。なお,その境内には,淡路の人形(芝居)座でもっとも権威のあった上村日向掾(12代目上村源之丞のことと思われる)一座が海上安全を祈願して安政5年に寄進した石灯籠がある(鳴門市史)。寺院には真言宗蓮花寺があり,元禄5年の再建と伝える(板野郡誌)。なおこの再建の時,大工の棟梁又右衛門が余興として宇陀紙50枚のわんわん凧を作って寺の前の海岸で揚げたのが,撫養地方の大凧揚げのはじまりだといわれている(鳴門市史)。同寺本尊の阿弥陀如来立像は古代の藤原期の作とされる。また,当村と里浦村の境には薬王寺があったが,往古退転し,現在は薬王寺谷という地名だけが残っている(鳴門辺集)。なお,「板野郡誌」には正保年間に退転したとある。行基の作とされる里浦村宝珠寺の木造薬師如来座像(県文化財)は,この薬王寺から来たものという(板野郡誌)。明治4年徳島県,同年名東【みようどう】県,同9年高知県を経て,同13年再び徳島県に所属。明治5年,当村に郵便役所を設置。明治9年調の戸数317・人数1,319うち男605・女714,船数は50~500石2・50石未満荷船45,明治初期の職業別戸数は工業81・商業52・雑業180(板野郡村誌)。明治9年名東県の出した貸座敷並娼妓営業取締規則で字通町松か下以西,河岸以東がその免許地に指定された(県警察史)。同22年撫養町の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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