奥浦(近世)

江戸期~明治22年の村名。海部郡のうち。徳島藩領。村高は,寛文4年の高辻帳で60石余,享保元年の高辻帳と天明7年の高辻帳も同高,「天保郷帳」で108石余,「旧高旧領」では126石余,すべて蔵入地となっている。当地はもと荒地で天正年間頃から開発し始めたが,その頃から元和年間にかけて,のちに奥浦開発13人衆と呼ばれる人々が居住,寛永9年藩の郷町形成策によって町場化が進み,寛永年間には計67軒に増加したという(海部郡誌)。「阿波志」によれば戸数142・人数605。江戸期の主な職業に,木挽,曲物を作るひものや,綿屋・木はり・塗師・晒屋・車屋・樽屋・酢屋・茶売・研師・しぼり屋・元結屋・宿屋・料理屋・畳屋・薬屋・紺屋などがあった。寺院に薬師寺がある。同寺には薬師堂・大師堂があり,本尊は薬師如来像,元和7年奥浦出身の僧法印快盛が北山谷から現地に移し薬師寺と号したという。なお同寺の本堂入口の菊花を彫刻した欄間と,竹に鶴を描いた一枚板の大杉戸は,もと海部城に使われていたものである。また脇宮の西山家の先祖は,刀工海部氏吉の一派で,応永年間に備前から海部ヘ来住,のち明治に至るまで海部氏吉の名乗りで海部刀を鍛造していた。明治4年徳島県,同年名東【みようどう】県,同9年高知県を経て,同13年再び徳島県に所属。「海部郡村誌」によれば,税地は田7町9反余・畑2町9反余・宅地2町8反余・山林(旧反別)2町8反余,明治9年調の戸数173・人数714ほかに他より寄留2,牛1・馬1,200石以上500石未満日本型船2・50石以上200石未満日本型船3・荷船32,材木を大阪・兵庫・堺へ輸送とある。同22年鞆奥【ともおく】村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7427300 |





