郡里町(近代)

昭和15~32年の美馬郡の自治体名。村制時の2大字を継承。世帯数・人口は,昭和25年1,582・8,449(男4,143・女4,306),同30年1,529・8,029(男3,906・女4,123)。農・工・商の戸数比率は昭和24年60.9%・32.2%・6.9%,同30年78.3%・12.6%・9.1%で,工業の和傘製造が,昭和23,4年頃復興,最盛期を迎え第2次大戦前の100万本の水準に戻ったが,昭和30年代に入り,洋傘の普及や農村家内工業的製造方法の前近代性により衰退していった。耕地は同27年496町のうち田が187町(38%)・畑235町(47%)・樹園地74町(15%)を占め,専業60%・兼業40%,経営規模5反未満が57%,5反~1町が37%で1町未満が94%を占める零細経営であった。主要生産物は米・麦・甘藷・煙草で,養蚕も行われた。昭和26年願勝寺の臥鶴の松が阿波八景の1つとなる。同24・28・29年などの台風や水害により,ことに同29年の12号台風では吉野川大洪水が起こり大被害を受けた。これは讃岐山脈から流出する河谷が天井川をつくっていることにもよる。同33年長い間岡田式渡船によっていた喜来渡しは,美馬橋の架設完成とともに姿を消した。美馬橋は吉野川をまたぎ当町と貞光町・半田町を永久橋で結んだ。同22年郡里中学校と同校切久保分校が新設された。同年分校は切久保中学校として独立。昭和24年県立脇町高校郡里教室が定時制家庭課程として設置され,のち分校となったが,同31年に廃止された。同32年「郡里町史」が発刊された。昭和31年字大宮西に町立美馬商業高校が新設された。昭和32年美馬町の一部となり,町制時の2大字は同町の大字郡里となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7427646 |