小松島町(近代)

明治40年~昭和26年の勝浦郡の自治体名。村制時の11大字を継承。明治41年の戸数2,445・人口1万3,052で,徳島県では徳島市,撫養町,加茂名村に次いで第4位であった。明治末期にはほぼ1万3,000人台であった人口は,大正期に入り,一時減少し,その後の世帯数・人口は,大正9年3,023・1万5,368,同15年3,402・1万7,307で,昭和5~13年までは1万8,000人台であった。こうした人口増加は,この時期の当町が港湾都市へと発展し,徳島~小松島間に鉄道が開通し,それに伴い工業化が進んだことなどによる。小松島港築港は,明治32年の勝浦川の決壊によって神田瀬川の水深が深くなったことと,同年の南海汽船商会の小松島~和歌山航路開設を契機に小松島村の村営事業により開始され,同41年皇太子が軍艦満州で入港するなどが重なり,重要な港湾となってきた(小松島市史)。同45年阿波国共同汽船が徳島と小松島を結ぶ軽便鉄道の施設に着手,大正2年竣工,同軽便鉄道は営業開始と同時に鉄道院に借上げられ,同6年国有化された(同前)。この小松島線開通を機に大正2年徳島~大阪間の阿摂航路と高知県甲浦港との間の航路が開設されている。また,大正4年には小松島線中田から分岐して南小松島・金磯・赤石・立江・羽ノ浦から古庄へ至る阿南鉄道工事着工,翌5年竣工。県内各地の鉄道の完成に伴って,小松島港は阪神方面への徳島県の玄関口となった。こうした動きにより,港湾改修が急がれ,大正2年から4か年計画,大正6年からの5か年計画で南北突堤が増築され,港内浚渫による1,000t級の汽船入港が可能となった。さらに大正10年には第2種重要港湾の指定を受け,工費320万円余をかける国営事業となり,昭和9年まで足かけ12年間に及び,同年には3,000t級の接岸可能な新港が竣工した。同10年には県営事業として陸上施設が建設されたが,同15年小松島臨港鉄道が敷設され小松島港駅が完成,営業が開始されてようやく近代的港湾としての整備が完成した(同前)。この間,港湾浚渫の土砂は,新港地区の海面内陸・元根井地先・横須地先など周辺部の埋立・造成に使用され市街地用地が形成された。さらに大正2年の中町・北町・神田・瀬川・小松島駅までの道路整備や千歳橋の架橋によって,一条から五条通りなど町の市街地の中心が整備され,日の峰通りを中心に商業地域が形成されていった。大正8年小松島駅前に阿波国共同汽船が船客待合所兼小松島営業支店として建設した木造2階建てのハイカラ館は港小松島の象徴となった(同前)。港湾・鉄道建設の進展と,勝浦川の良質の伏流水・表流水が得られるという条件を備えた当町には各種の工場が設立されるようになった。大正5年馬場ノ本にゼラチン製造の日本化工,同6年中郷に四国製糸,同10年大阪合同紡績の小松島工場が建設された。同社は翌11年紡績・織布の一部操業を開始,竣工時にはプラット式精紡機2万錘余で出発したが,急速に規模を拡大した。同15年の第二工場完成によって精紡機4万2,888錘・織機1,308台を数え,当町工業の隆盛を画し,中核的工場となった。同工場は昭和6年大阪合同紡績と東洋紡績との合併により東洋紡績小松島工場と改称する。大正期には当地の主要産業であった染色業が衰退,各種の食料品製造工場が建てられ,ちくわ・かまぼこなどの水産ねり製品,ミカンやタケノコの缶詰・清涼飲料水・菓子・味噌醤油・乳製品・氷などを製造した。昭和8年神田瀬町に小林燐寸,同11年中郷町に真鍋製紙,同14年井村造船所が設立されるなど各種の工業が発展した。これらの工場への電力は供給区域を徳島市・勝浦郡などにもつ徳島水力電気によって供給された。同社は大正6年水力電気の補給用として横須開に小松島火力発電所(出力1,000kw)を建設した。同12年同発電所は三重合同電気所有となったが,昭和6年合同電気は小松島町字今開に徳島火力発電所を竣工(7,000kw),同11年第2期工事竣工により同発電所は合計出力1万kwに達している(同前)。小松島港の発展とそれに伴う工業化によって,当町は港湾都市へと成長していった。昭和9年の職業別戸数調査によると戸数4,380のうち,農業が1,015(23.2%)と第1位を維持しているものの,工業808(18.4%)・商業801(18.3%)・交通業403(9.2%)と,第2次・第3次産業に従事するものが大きい比率を占めている。明治44年阿波商業銀行小松島出張所が開設され,大正3年同支店となる。同15年四国銀行小松島支店が開設された。大正期には米麦作のほか野菜・煙草・菜種などの栽培が盛んとなった。酪農・養鶏・水田養鯉などの多角的農業も徳島市を市場として展開した。第1次大戦後の大正7年当町にも米価高騰による米騒動が起き,1石50円余まで急騰し,「下層細民ノ生計ヲ脅威スルコト夥シク,人心マタリ」という状況であった。町役場はその対応策として役場内に臨時救済部を設置,町内有力者からの金穀の寄付を募り,それを財源として,370余戸・1,591人に内地米を廉売・給与,恩賜救恤金1,135円で外米を購入・廉売し660余戸・2,220余人に25日間の食料供給を行い「人心ヲ不安ヨリ救」う対策を実施している。昭和4年全町30有余の農事慣行組を基盤に産業組合を設立,翌5年組合員数569人で,信用事業中心で発足した。また昭和6年には昭和恐慌による失業の救済対策の一環として県道津田小松島線および県道徳島津田線の改良による産業道路の建設に着工している。当町が地元寄付金として産業道路建設に支出したのは当町中田踏切房浜間17万6,140円余のうち4万5,000円であった。この産業道路建設は延べ17万3,000人の失業者を雇用,救済の一助となったばかりでなく,八万村・勝占村大松を経由する県道徳島小松島線(旧土佐街道・小松島街道)に代わる徳島~小松島間の交通の大動脈となった。大正7年小松島尋常小学校に小松島実業学校が,千代・児安・芝田の各校には実業補習学校が付設され,同9年には併設校となり,職業教育が実施された。昭和6年町内各小学校の実業補習学校男子部は統合され,小松島尋常高等小学校併設の小松島実業専修学校となった。同校は昭和10年に小松島青年訓練所と統合して小松島青年学校となり,従来の実業教育に加えて軍事教育が行われた。大正12年私立小松島幼稚園が北町光善寺に設立された。同15年日開野に南小松島尋常小学校が創設された。昭和6年開校の県立小松島高等女学校は南小松島小学校の教室を仮教場として開校。昭和9年町立小松島実業学校(農業部・商業部,のち県立小松島農業高校)が開校した。両校は同23年統合再編成され県立小松島高校として発足した。昭和23年小松島港は開港場に指定された。同24年町立病院は日赤県支部診療所として発足,現在の小松島赤十字病院となる。同25年横須に町営小松島競輪場が完成,同年第1回の競輪が開催され,入場者は同年10万人を超えた。翌26年町営バスの運営が始まった(小松島市史)。同年4月立江町を合併,立江・櫛淵の2大字を加える。同年6月市制施行。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7427683 |