100辞書・辞典一括検索

JLogos

41

西条(近代)


 明治22年~現在の大字名。はじめ一条村,大正12年一条町,昭和32年からは吉野町の大字。明治24年の戸数1,320・人口5,398(男2,749・女2,649),厩175,寺1,学校3,船13(徴発物件一覧表)。撫養街道(鳴門~池田)沿いと,徳島市場街道沿いに集落がある。産業は農業が主で藍作の生産量は字北須賀・亀田あたりが高く,字野田原・大西では少ない(吉野町史)。同35年頃藍作が衰退し,同44~45年頃から,桑園が増加し昭和15年頃まで盛んであった。水田化は住民の長年の夢であったが,大正2年一条村の板名用水区域外高地の一部と柿島村柿原地区の一部で水田が作られた。紀念大正耕地整理組合は,砂地のような扇状地に水を送り,水田として利用,1反に米が2石から3石とれるようになった。また明治37年日露戦争の紀念事業として,板名改良区が発足し同41年に通水し水田化が進んだ。米騒動はなかったが,外国米を輸入し,鎮静化をはかっている。工業は大正10年頃から昭和5年頃に字原市と字町口に製糸工場があった。当地は水害常襲地帯で水との戦いに多くの人命と財産を使い果たした。明治38年西条須賀堤防が決壊し四ツ屋の被害は甚大であった。同44年西条西須賀堤防が決壊,昭和28年には姥御前での宮川内谷川が決壊した。両河川の改修は,明治16年頃から測量がはじまり,吉野川は昭和33年に吉野町の無堤防地区がなくなり,一応水害の心配がなくなった。宮川内谷川は宮川内ダムの建設と改修が進んだ。寺院には浄土真宗興正寺派延寿寺,浄土真宗真楽寺があり,明治43年八幡神社が,当地にあった無格社19社を合併し,一条神社と改称した。大正15年当地出身の航空界の先駆者乾将顕が郷土を訪ねている。明治26年一条郵便受取所業務開始,明治22年西条分署,大正2年一条村巡査部長派出所が設置された。昭和21年自治体警察一条町警察署が発足,同28年巡査部長派出所となり現在に至る。大正15年当時全国6町村にしかなかった避病舎が明治30年一条村避病院として当地に建設された。同36年庄境尋常小学校・先須賀分教場・西条尋常小学校が統合,一条尋常小学校(現一条小学校)となる。児童数は同年230・昭和33年1,181・同60年527。昭和2年一条二葉園開園,同32年一条幼稚園と改称。昭和30年一条保育所,同50年中央保育所設立。昭和29年先須賀と四ツ屋両地区を牛島村に編入。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7427695