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貞光村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。美馬郡のうち。徳島藩領。慶長11年5月5日の奥山定書には「貞光山里当検地之上,南八蔵,西四郎右衛門,次郎右衛門,前々之在所へ帰住,年貢等無油断可申付候」と見える(一宇口山村南長芳蔵懸板/徴古雑抄5)。村高は,寛文4年の高辻帳では742石余,枝村として「貞光山分」が見える。享保元年の高辻帳,天明7年の高辻帳ともに同高,文化10年の阿波国村々御高都帳(民政資料)829石余,「天保郷帳」1,088石余,「旧高旧領」990石余ですべて蔵入地。延宝9年の美馬郡中高及家数人数帳の人数1,493(男790・女703)である(新編美馬郡郷土誌)。幕末期と推定される美馬郡村高其他控帳(新編美馬郡郷土誌)では家数587・人数2,684。米・麦・藍・煙草などが主作物で,特産品として養蜂による蜂蜜があった。一宇村・東端山・西端山や貞光谷をさかのぼる入口にあたり,山村の産物である煙草,紙,茶などの商品作物と農具や塩・油などの生活必需品を商う在郷町として発展した。江戸初期には渡辺与兵衛が武士から町人になり当村に住した。また蜂須賀家政に仕えた臼杵宗味は,当村が商売に適した場所であることから,願い出て当地に居住したといい(貞光町風土記),江戸初期に町造りが始まり,中期以降繁栄した。明暦3年吉野川洪水を防ぐ堤防工事のため,当村や東端山村・西端山村などから藩は夫役の徴集を行ったが,苛酷な夫役に堪えきれず,東端山政所の助左衛門は貞光代官原喜右衛門を当時の藩主蜂須賀光隆に直訴した。また天保13年には吉野川河川敷内の郡里村(美馬町)との村境をめぐる争論があった。字寺町の真光寺は延宝7年に再興された真言宗御室派の寺院である。寛保神社帳(続徴古雑抄1)では当村の神社は,松尾大明神・井脇八幡宮・西山十二社権現・牛頭天王・東山十二社権現・若宮大明神,神主には当村の小倉山長門などの名が見える。「阿波志」によれば,東端山・西端山はもと当村に属し,文禄年間3か村に分村したとあり,土田は中,陸田10分の9・水田10分の1,反別93町9反余,村高752石,戸数458。明治4年徳島県,同年名東【みようどう】県,同9年高知県を経て,同13年再び徳島県に所属。明治9年の戸数710・人口3,249(男1,646・女1,603)で(新編美馬郡郷土誌),同年の耕地面積310町余うち田32町余・畑278町余(貞光町史)。米・麦・豆や甘藷は自給用,葉藍・煙草・菜種・素麺などを販売用に産出していた。明治5年真光寺に郷学校が置かれ,同6年益習小学校と改名,同9年貞光小学校となる。明治6年設置の邏卒出張所十八分屯所は,同10年脇町警察署貞光分署となった。同22年貞光村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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