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椿町(近代)


 昭和15~30年の那賀郡の自治体名。村制時の2大字を編成。昭和15年の人口5,282。同年の漁獲高は椿泊82万6,150貫・91万円余,伊島8万1,622貫・8万円余である。戦争による犠牲者は日露戦争の20人に対して日中戦争・太平洋戦争では椿泊264・椿106・伊島60,その他14名を合わせると日清戦争以来の戦死者は464名にのぼり,阿南市旧12か町村の最高数を示している。昭和20年3月米軍機は椿泊の出島に焼夷弾10数個を投下し大火災を起こし,7戸が全焼。同年6月には本土防衛のために1,000余人の軍隊が椿泊に駐屯した。同年7月に漁船弘栄丸が伊島沖でアメリカ軍機の銃撃にあい,沈没,死者3・負傷者3,同月50人定員の連絡船甲子丸に207名を乗せ沈没,51名の死亡者を出し,ほかに戦後間もない10月漁船浜住吉丸が機雷にふれ沈没,死者5名を出した。戦後,戦地からの引揚げ,都市からの帰郷者で人口は激増し,昭和22年には6,287人を数えた。同年の米作214.3ha・収穫高499.3t。同23年の食糧供出は米1,474石・麦644石であった。昭和22年の漁獲高では椿泊134万7,480貫(215万2,690円)・伊島が7,447貫(156万7,610円)であった。昭和26年の伊島南防波堤,同27年の中学校前船溜,同28年の大深原船溜,同29年の平松突堤・須屋突堤,同30年の北防波堤,ほかに昭和25年の南海地震被害による椿泊護岸復旧など次々と防潮事業を行った。椿泊糠塚から下福井へ抜ける工事が昭和18年に起工,同26年に開通。同29年椿上水道,同30年には伊島簡易水道も施設された。昭和23~24年に農地解放が行われ,171町余の土地が耕作者に買収・換地され,小作農家が48戸から15戸へ,小作兼自作が60戸から13戸へと減少し,自作農家は108戸から206戸に倍増。昭和21年の南海大地震や同35年のチリ地震による津波では大被害を受けた。蒲生田岬と伊島の間に橋杭礁と呼ばれる5か所の暗礁があり,昭和20年の椿泊答島連絡船転覆,同29年フィリピン貨物船の座礁,同33年宍喰賀宝丸の座礁,同36年第2室戸台風のため漁船・貨物船などの大破をはじめ,毎年数件の海難事故が起きている。椿町は民家が集中し,火災も多く,一度の火災の被害は大きい。椿では半分が山林労働に伴う山火事である。昭和36年には真珠工場から出火し,山林100ha焼失。椿中学校は昭和22年に設立,同26年椿泊町庄田に校舎を完成。昭和22年に設立された椿中学校伊島分校は,同23年伊島中学校として独立。永年無医村であった伊島に同29年伊島診療所が設置された。昭和26年の宅地6万2,624坪・田239町・畑65町・山林1,780町・原野2町,その他98町。昭和25年の産業別人口は農業961(41.5%),水産業676(29.2%),製造工業125(5.4%),商業167(7.2%)である。第1次産業73.2%,第2次産業5.1%,第3次産業16.5%。同26年の主な農産物は米3,645石・裸麦1,868石・サツマイモ4万2,000貫・ジャガイモ7,320貫・大根8,800貫・葉煙草99万6,000kg余,そのほかにサトイモ・小麦・大豆・ソラマメ・小豆・トウモロコシ・ナタネなど,果実では柿6,800貫・ミカン1,000貫,畜産類は牛234頭・馬39頭・鶏1,299・豚7・山羊3・緬羊15など,水産漁獲高は魚類85万貫,貝類13万2,000貫,藻類48万貫,加工魚類では素乾1万貫,煮乾30万貫,製造業では食料品工業が主で,タケノコ缶詰3万貫(県市町村勢要覧)。昭和24年には新野高校椿泊分校を椿町庄田に設立,同27年の生徒数76(男18・女58)。昭和30年橘町の一部となり,その際椿泊の伊島が大字として独立し,他の2大字とともに同町の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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