100辞書・辞典一括検索

JLogos

62

那賀郡


「延喜式」阿波国九郡の1つ。平城宮跡出土の木簡銘に「阿波国長郡坂野里」(平城宮木簡概報11),「□(阿カ)波国那賀郡林郷白米五斗」(平城宮木簡1),「阿波国那賀郡中男海藻六斤 和射」(同前2),「阿波国那賀郡山代戸主⊏」(同前2)とあり,また天平勝宝2年4月4日の智識優婆塞等貢進文に「安(阿カ)波国長郡大野郷」とあることから(正倉院文書/寧遺中),古くは長郡とも記されていたことが知られる。当郡は大化前代に存立していた長国の中心地域であったと思われる。「先代旧事本紀」巻10の「国造本紀」に「長国造」として「韓背足尼」の名が見え(国史大系),奈良・平安期に旧国造の系譜を引くと思われる長氏の名が記録に散見する。すなわち,「続日本紀」宝亀4年5月7日の条に,阿波国勝浦郡領長費人立が,「庚午之年」(天平2年か)に長氏の姓が直から費に改められたことに対して前郡領長直救夫が訴えを起こしたと申し述べている。さらに「三代実録」貞観13年閏8月4日条によれば,勝浦郡の人,長直大富売が位二階を進められて,戸内の租が免除されたことが記されている(国史大系)。長国の範囲は,延喜式内社の御間都比古神社(現名東【みようどう】郡佐那河内【さなごうち】村中峰)が長国造の祖,観松彦色止命を祭神としていることから(県神社誌),現在の名東郡の一部を含んだ県南一帯の地に比定されている。阿南市桑野町内原に存在する5世紀末築造と推定される前方後円墳の国高山古墳は,長国造関係の遺跡とされ,長国の中心地を同市桑野・長生【ながいけ】町付近にする説もある(県史1)。「和名抄」には当郡所属の郷として,山代・大野・島根・和泉・坂野・幡羅・和射・海部の8郷を記載する。このうち,山代・坂野・原(幡羅)・和射の地名については前記の平城宮跡出土の木簡銘にも見える。また郷戸主として,天平宝字5年2月22日の奉写一切経所解案に「太郷(大野郷カ)戸主漢人比呂」が(正倉院文書/大日古編年15),「原郷戸主百済牧夫」の名が木簡に見えており(平城宮木簡概報6-8),当郡内に渡来系の人々が居住していたことがうかがわれる。「延喜式」巻7の践祚大嘗祭によると,「阿波国所献……鰒卌五編,鰒鮨十五坩,細螺,棘申蠃,石花等并廿坩,〈巳上那賀潜女十人所作〉」とあり(国史大系),「那賀潜女」が海産物を貢納するところとなっている。これは当郡内の海岸地帯から貢納されたものと思われる。天暦4年11月20日の東大寺封戸荘園并寺用帳によると,東大寺は阿波国に100戸の封戸を有しており,このなかに那賀郡の封戸50戸が含まれていた(東南院文書/平遺257)。それによると当郡内の封戸から調糸99絇6両・庸米25石5斗・租大豆11石1斗・小麦10石・中男油1斗4升が寺用に供されていたことが知られる。現在条里制の遺構が阿南市大野地区・長生町三倉・桑野町内原,那賀郡羽ノ浦町,小松島市坂野町に見られるが,このうち大野地区には小字名として三条・九ノ坪の名が残存している。なお阿南市宝田町郡付近は郡衙の所在地と推定されている。古代廃寺跡として阿南市宝田町下荒井字立善寺の隆禅寺跡がある。隆禅寺はその出土瓦から白鳳期の創建といわれ,県南最古の寺院と伝えられている。同市加茂町竜山にある太竜寺は,真言宗高野派に属する寺院で,空海修行の霊地として,空海の著「三教指帰」に「阿国太滝岳」と見えている(古典大系)。また承和3年9月13日に記されたという真然僧上作の「阿波国太竜寺縁起」によると,太竜寺は延暦17年9月に桓武天皇の勅願により,阿波国司藤原朝臣文山が伽藍の建立にあたり,空海自作の諸仏を安置したと記している(続群28上)。平安期から見える荘園として,宝荘厳院領大野荘と後白河院領竹原荘が存在した。大野荘の初見史料は平治元年閏5月日の宝荘厳院領荘園注文で,それによると本家は鳥羽上皇,領家は藤原季行となっている(東寺百合文書/平遺2986)。荘地は阿南市上大野町・中大野町・下大野町に比定される。竹原荘は,当初左大臣藤原頼長家領であったが,頼長が保元の乱に敗れたことによって後白河院領に編入されたことが保元2年3月25日の太政官符に見える(兵範記同年3月29日条/大成)。さらに長寛元年9月25日付の二品家政所下文には,金泥法華経一部と開結阿弥陀般若心経等各1巻が竹原荘内の水田5反とともに八桙神社に奉納,寄進されたことが記されている(八鉾神社所蔵/平遺3268)。なおこの文書については検討の余地がある。八桙神社は「延喜式」神名帳にも記載されている神社で(祭神大己貴命),前記下文には「竹原野御庄鎮守八桙社」とある。現在阿南市長生町宮内に鎮座しており,紺紙金字法華経8巻と平安末期の作といわれる木造の大己貴命像(国重文)ほか7体の木造神像を所蔵している。竹原荘は長生町付近に比定される。郡域は現在の小松島市南部・阿南市・那賀郡・海部郡一帯に比定されるが,平安末期に海部郡が分離独立したことが寿永4年正月28日年紀のある線刻弥勒菩薩座像銘(徴古雑抄4)に「阿波国海部郡福井里大谷」とあることによって知られ,また,康和5年8月16日の阿波国大滝寺所領注進(前田剛二氏所蔵文書/平遺1523)に「在那西郡吉井加毛」とあることから,平安末期に那東・那西両郡に分離したことが知られる。両郡の郡域は戦国期阿波国内の国人級武士を書き上げた「太田文」(徴古雑抄3)記載の両郡の武士の根拠地から推定して,那東郡は現在の那賀郡那賀川町・羽ノ浦町東部および阿南市長生町以東,山口町以南の同市域に比定され,那西郡は現在の小松島市南部,羽ノ浦町西部および阿南市大野地区・加茂谷地区以西の那賀郡を含む地域に比定される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7428209