拝宮村(近世)

江戸期~明治22年の村名。はじめ那西郡,寛文4年からは那賀郡のうち。徳島藩領。長安村の枝村で,その高は寛文4年の高辻帳,享保元年の高辻帳,天明7年の高辻帳,「天保郷帳」ともに長安村の村高に含まれる。なお「木沢村誌」の湯浅家の記事によれば,紀州熊野から移住し木頭【きとう】村(現木沢村)を開発した湯浅壱岐守兼行は同村周辺村と当村をも開発したと伝える。「旧高旧領」では村名が見え,村高65石余ですべて蔵入地。また文化10年の阿波国村々御高都帳でも65石余とある(民政資料)。同高は日真村を枝村として含むかと思われる。「阿波志」によると,徳谷・上徳谷・松本・出合・隠宅・藤白谷・湯元・研屋下・杉佐古・飯谷・五味・松尾・鍛冶屋・志夜須・横尾・何宅・新屋の17の里があり,日真村を除き,水陸田13町8反余,高58石,戸数57戸・人数223とある。なお同書の村里木頭村に「轟谷」の里名が見え,天正17年の検地帳でも同村中に「とどろ谷」が見えるが,拝宮谷川上流に位置する轟集落は現在当地に含まれる。幕末から明治初年の間に当村に属したと思われる。特産物は拝宮紙と拝宮干柿であった。阿波国で初めて紙が作られたのは天正13年頃とされるが,寛政6年竹内十兵衛が加茂谷で石灰を焼き製紙法を教えたといわれ,それ以後丹生谷各地に普及した。当村でも享和年間に始められ,江戸末期の酒井順蔵の「阿波国漫遊記」の中に「東尾・栗坂を下りて西は専ら紙を漉く」と見える。また拝宮干柿は高い糖度をもち,種がないことで著名で,江戸期から作られていたと考えられる(上那賀町誌)。鎮守は白人神社で,天正12年の棟札があり,祭神は邇々杵命。別殿に八幡神社と若宮神社を合祀して応神天皇・仁徳天皇を奉祀し,白人神社と総称されている。また境内には山の神・地神・疱瘡の神も祀られている。舞台では人形浄瑠璃や芝居が行われ,村人の信仰と娯楽の中心であった。拝宮人形座は,享保年間以前に阿波北方地帯から巡業にきたデコマワシの人形頭5個を買い求めたのが始まりといわれ,享和3年には豊竹熊太夫によって仮名手本忠臣蔵十段目の稽古を始めたという。そのほかに大歳神社(祭神大年命)・大山積神社(大山祇命)・松尾神社(大山咋命)・八幡神社(誉田別命)・轟神社(志那津比古命・志那津比売命・綿津見命)がある。なお轟神社には享和3年再建の棟札がある(上那賀町誌)。また地蔵庵や地蔵堂があり,庚申塔や地神塔もみうけられた。明治4年徳島県,同年名東【みようどう】県,同9年高知県を経て,同13年再び徳島県に所属。「那賀郡村誌」によれば,税地は田21町6反余・畑9畝余・宅地3町1反余・山野(旧反別)2反余,明治9年調の戸数73・人数324,牛56,産物は米・麦・粟・稗・大豆のほかに紙・茶・板などがあげられ,民業は全村あげて農業とある。明治22年宮浜村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7428406 |