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古津村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。はじめ那東郡,寛文4年からは那賀郡のうち。徳島藩領。村高は,寛文4年の高辻帳では165石余,享保元年の高辻帳と天明7年の高辻帳も同高,「天保郷帳」で167石余,「旧高旧領」では478石余うち蔵入地91石余,残余は藩士3名の知行地。「阿波志」によれば戸数70・人数209,水陸田21町9反余。神社は,明治3年正八幡神社と改称し同27年正の字を削除した八幡神社がある。なお,古津塁城主越智兼常の霊を祀ったとされる天神社(菅廟)と平島塁北隅にあった清和天皇を祭神とする三社神社もあったが,明治11年に合祀された。三社神社が合祀される際,移された石灯籠が今も残り,「永禄巳年八月二十七日源義冬」と刻されている。平島塁は「阿波志」に「藤原清兼拠此,永禄中源義冬入居改称館」と見えるが,平島館・公方屋敷などと呼ばれ,天文3年足利義冬が修築して移り住んで以来,9代が住んだ。義冬の子義親(義栄と改名)は父に代わって上洛し,永禄11年2月には征夷大将軍に任ぜられ室町幕府14代将軍となったが,織田信長が足利義昭を奉じて上洛するにおよび阿波に帰り,その年の10月撫養で病没した。蜂須賀氏入国以降は冷遇されたため,その不満を詩歌などに託した8代平島公方義宣は,京都より名儒島津華山を招き,屋敷内に華山の住居として栖竜閣を建て,高橋赤水・山内半下・信行寺才玄など多くの文人が出入りした。また9代義根は漢文学に才能をあらわし,栖竜閣詩集に多くの秀作を残すなどし,当地は阿波国南方地域における漢文学の中心地となった。なお文化2年に義根は当地を退去し,平島館の建造物は現存していないが,館址の名残はとどめ,また玄関は小松島市内の地蔵寺に移建され県文化財に指定されている。赤池村の西光寺には歴代公方の墓石が残り,民間に幾多の伝承を伝え往年の面影をしのばせている(村史平島・平島公方)。明治4年徳島県,同年名東【みようどう】県,同9年高知県を経て,同13年再び徳島県に所属。「那賀郡村誌」によれば,田36町1反余・畑2反余,明治9年調の戸数45・人数258(村史平島)。明治22年平島村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7428637