池戸村(近世)

江戸期~明治23年の村名。三木郡のうち。池戸郷に属す。深谷村と通称されるという(全讃史)。はじめ生駒氏領,寛永19年からは高松藩領。村高は,「寛永17年生駒氏惣高覚帳」「貞享元年高辻帳」ともに1,302石余,「天保郷帳」1,615石余,「旧高旧領」1,692石余。寛永19年の小物成は真綿351匁(小物成帳)。天正8年松原万助義成(信義の弟)が河内国河内郡松原村から当村に土着し,十河存保に仕えた後に生駒氏に召し出されて200石を給せられる。万助義成の養子小助玄雪は阿波国の三好氏の出だが,万助の娘を妻として家を継ぎ,生駒氏に仕え旗奉行となり,500石を与えられる。寛永2年藩に願い,池戸大宮八幡宮境内に松・杉・榊・楠などを植え付けている。また慶長7年には同宮を再興し,そのときの棟札が残っている。同10年松原小助は,山田郡十川の称念寺に十河存保の菩提を弔う料所として十河城本丸跡および田2反・畑6畝を寄進している(三木町史)。真宗興正派の西徳寺も天正7年に当村へ移ってきたという。地名の由来ともなった男井間池は古代以来の池と思われるが,現在の池の中ほどに中堤と呼ばれる旧堤防の跡が残っているところからみて,昔は今の半分足らずの池であったらしい。記録の上では貞享元年に「新たに池敷七町歩を増す」とあり,宝暦5年の池帳では堤の長さ139間(250m)とある。同池は,はじめ鴨部川から11km以上の井手によって水を引いていたが,池を満水にすることができず,水田にすることのできない耕地が残されていたため,天明5年井上村の農民溝口恒八は近くを流れる新川の水を引く計画を立て,藩普請奉行立会いと大勢の協力のもとに工事を進め,完成した。この功で恒八は以後庄屋格として扱われた(男井間池掛井手水源変更の由来)。一方吉田川は,宝永年間の古地図では姥が池の所で西に曲がらず,そのまま北に流れ,前田(高松市)で新川と合流していた。享保6年の大洪水では水が堤を越え,田畑を押し流し,それ以後天保9年まで度々堤が壊されている(天保9年巡見使御答書)。堤が現在のように姥が池から西へ曲げられたのは,長土手の並木松の樹齢その他から推して江戸中期と思われる。寛文年間の三木郡大庄屋に松原又右衛門義明,文政11年の庄屋に植松理太夫が平木村・鹿伏【ししぶせ】村の庄屋を兼帯して就く。天明4年下高岡村で起こった応神寺(四条の高岡八幡宮別当)と白山権現の山伏との土公祓などをめぐる争論で,文化3年白山の山伏は讃岐国外へ追放になり,白山権現の支配は当村恵徳院(池戸大宮八幡宮別当)に任されることになる。同11年白山権現の社役勤めは再び恵徳院から応神寺に戻される。文政6年の大旱魃の時,恵徳院は応神寺とともに白山で雨乞をした。明治2年神仏分離のため恵徳院は廃寺となる。幕末期に岡本嘉助が寺子屋を開き,その子嘉作もあとを継いだ。明治20年に教えを受けた弟子たちが墓を建てた。幕末期次第に多くなった荷物の運搬や役人の往復のため伝馬所が設置される。この経費は村からの伝馬所引きと官費補米をもって充てられる。賃銭は,公務の藩士は無賃,その他は人足1人1里につき藩札1匁5分,馬は人の2倍,駕籠は馬の3倍,夜は昼の2倍,他藩の者や中央からの役人は人夫1人につき金2厘,馬は人の2倍,駕籠は馬の2倍であった。明治4年高松県,同年香川県,同6年名東【みようとう】県,同8年再び香川県,同9年愛媛県,同21年三たび香川県に所属。明治4年伝馬所は人馬継立所と改められ,従来の官費補米をやめ,同5年相立人馬賃銭法を定める。賃銭は1里につき平人足脚夫4銭5厘(ただし夜行は昼の2割5分増し),馬1匹1里につき9銭,駕籠人足5銭。同5年の副戸長は植松仲雄で平木村・鹿伏村・下高岡村を兼帯。同8年の戸数387・人口1,892,反別177町余(梶山家文書)。同8~9年頃に清節小学校が開校。同12年天神社境内に池戸消防組を設置(三木町史)。「新撰讃岐国風土記」によれば,北東は井上,南は田中,西は前田・十川,北は牟礼の諸村に接し,反別は田213町余・畑30町余・山林268町余・原野7畝余・宅地20町余,戸数578・人口2,500(男1,310・女1,190),山は小野原山,川は池辺川,池は雌間・雄間池,巡査駐在所があり,産物は鯉・鮒・米・砂糖・蕪。同23年平井村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7429040 |