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泊浦(近世)


 江戸期~明治23年の村名。塩飽島本島のうち。「泊り浦」とも書かれる。幕府領(大坂町奉行・川口奉行・倉敷代官などの支配を経る)。村高は天正18年検地147石余(田37石余・畑110石余),慶長11年検地160石余(田41石余・畑119石余),「天保郷帳」140石余。塩飽人名領の中心的村で,4年寄のうち宮本・入江・真木の3家は当村で島治にあたり,年番も笠島浦と当村から出た。宮本家はのちに3年寄を占め専横的性格を強めたため,寛政年間の島治改革後は年寄が選出交替制となり,当村宮ノ浜に建てられた塩飽勤番所で政務が執られた。当村からも年番石川清兵衛ら4人が年寄職を勤めている。人名数は塩飽島650のうち最大で,当初110。万治2年瀬居島開作により20人分を移してからは90(古加子62・新加子28)。水主役として御用を勤めるほかは幕府からの課税はなく,宝永元年塩飽島中納方配分之覚によれば,村高129石余から当村人名90人分90石のほかに八幡神社・木烏神社分各1石,牛島新加子分12石,瀬居島新加子分7石,大浦新加子分6石余などが支払われ,不足分6斗9升余が甲生浦より納められている。集落規模は宝永年間で泊在所が長さ120間・横53間,東に隣接する宮ノ浜が長さ340間・横140間(島々町歩/塩飽島諸事覚)。延宝4年の家数334・人数1,967,船78(塩飽島巡見帳)。正徳3年の家数341,人数1,590,船73うち430~890石積18(塩飽諸訳手鑑)。寺院は,正徳年間本島20か寺のうち正覚院・長楽寺・延命寺・宝性寺・十輪寺・金光寺・神宮寺・惣光寺の8か寺があり,すべて真言宗。正覚院は塩飽島中すべての真言宗寺院を末寺とした。神社は「宮ノ別当并社人所訳」記載の本島12社のうち木烏神社と八幡神社の2社があり,とくに社人の名もあげられている。八幡神社は本島の総氏神(塩飽島諸事覚)。西回り航路開設後,人名は廻船業に従事し浦は繁栄したが,江戸後期には廻船業は衰退,人名の間に職業分化が進んだ。天保9年宮ノ浜に入浜式塩田を開作。文久2年木烏神社境内に建てられた芝居小屋は千歳座と呼ばれ,地芝居・受け芝居を行って島民の娯楽施設となった。幕末,塩飽島民の優れた操船技術は幕府海軍に重用され,万延元年咸臨丸のアメリカ渡航に際しては水夫50人のうち6人が当村から出た。また文久2年当村の山下久吉はオランダ留学生の1人として渡欧し,帰国後近代造船業の発達に貢献した。明治元年倉敷県,同3年高知県・倉敷県,同4年丸亀県・香川県,同6年名東【みようとう】県,同8年再び香川県,同9年愛媛県,同21年三たび香川県に所属。明治5年の戸数370うち大工職54・農業40・船乗渡世15・商業11・漁業231・その他19。大工職は,西日本各地の寺社建築などを手がけ,塩飽大工の名を馳せた。同7年(一説には明治5年)那珂郡に属す。地内小坂は人名制成立後に安芸国からの漁民の移住により形成されたと考えられている。地名は坂の多い地形に由来し,近世初期,当時無住地であった本島南部海岸に集落を形成し,近海での底曳網を生業とする漁業集落として発展した。寛永16年氏神として六山神社を建立(大山神社口碑)。人名からは無権利の人名外島民として処遇され,人名と対立した。幕末期の長州戦争の際人名側の要請により水主役を勤め,その代償として人名権を要求したが受けいれられず人名と衝突,明治元年人名側からの集落襲撃・焼き打ち事件(小坂騒動)が起こり18人の犠牲者を出した。事件は当時高松藩征討のため丸亀にきていた八木彦三郎率下の土佐藩が鎮定,八木指揮下で当地は復興された。事件当時300戸以上を数えたが,事件により丸亀・多度津などに移住する者も出,数十戸を減じた(十八人の墓)。小坂の同5年の戸数252のうち漁業230・商業8・大工職4・船乗渡世4・農業2・その他4。明治以降,底曳網のほか鯛建て網なども考案され(大橋元造石碑),漁業集落として発展した。本島には明治10年4小学校が開設されたが同18年2校となり,泊浦に開設された鶏林小学校が同20年本島尋常小学校となった。明治18年当村に本島村の戸長役場を設置。同23年本島村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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