西十川村(近世)

江戸期~明治23年の村名。山田郡のうち。十河郷に属す。貞享元年までに十川村が当村と東十川村に分村して成立したと思われる。はじめ生駒氏領,寛永19年からは高松藩領。村高は,「貞享元年高辻帳」625石余,「天保郷帳」957石余,「旧高旧領」960石余。天保9年の戸数115(石居35・掘立80)・人口520うち男280・女240(御巡見一条万覚書)。神社は,鰹宇神社・楳園神社・吉田神社・熊野神社の4社(県神社誌)。鰹宇神社は大化年間森口帯刀が当地に創建。十河城主十河一存が崇敬して祭田を寄進,天正年間長宗我部の兵火に焼かれ,その後再興(讃州府志)。神社名は,はじめ神を奉じてこの地にきたるとき,土佐から朝廷に鰹魚を献じて帰る船に便乗したことに由来するという(山田町史)。寺院は,真宗興正寺末寺光清寺と寛政2年建立の松寿庵(のちの西教寺)。光清寺は文明2年沙門善良の創立。善良は甲州逸見冠者清光の末葉,はじめ下林村に一宇を建て,のち今の地に移す(山田町史)。文政年間の庄屋は壺井直八(高松藩大庄屋小庄屋姓名録)。鰹宇神社神職森口四郎と,西十川の人壺井直三郎が師匠となった寺子屋があった(木田郡誌)。産業は米・麦作の農業が中心であるが,当村の溜池には雀池(有効貯水量約1万3,000m[sup]3[/sup])しかなく,灌漑水は四箇池など他村に依存。壺井六五郎は当地の大里正で,鰹宇神社の祭田を寄付し,山林を栽植し,神内池の増築その他土木事業に努め,私財をもって貧民を救済するなど公益の事業に尽くした(讃州府志)。明治4年高松県,同年香川県,同6年名東【みようとう】県,同8年再び香川県,同9年愛媛県,同21年三たび香川県に所属。明治8年の戸数183・人口822,反別86町余(梶山家文書)。同年頃光清寺教育所を同寺内に開設したが,のち単独で西十川小学校を設置,同20年十川小学校を設立した。「新撰讃岐国風土記」によれば,郷の中央西寄りに位置し,反別は田104町余・畑5町余・山林2町余・原野2畝余・宅地8町余,戸数198・人口1,025(男516・女509),川は吉田川,泉は大泉,池は雀池,村役場・巡査駐在所・尋常小学校があり,産物は簔。同23年十河村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7430109 |