萩原村(近世)

江戸期~明治23年の村名。豊田郡のうち。和田郷に属す。はじめ生駒氏領,寛永18年丸亀藩(山崎氏)領,万治元年丸亀藩(京極氏)領。村高は,「寛永17年生駒氏惣高覚帳」457石余,「寛文4年高辻帳」の朱印高333石余・今高453石余,「延享年間高辻帳」333石余(ほかに新田并改出172石余),「天保郷帳」666石余,「西讃府志」621石余,「旧高旧領」634石余。慶長16年の地蔵院文書に地蔵院領18石とある。寛永元年には開墾が認められ,寛永4年は起高の年貢を免除,寛永11年には米10石を毎年寄進,また寛永12年には,「東は大谷の水流,南は岩のはな限り,西は岸を限り,北は池の新井手切りが朱印地になった」とある(地蔵院文書)。元和年間の末,西島八兵衛の来村によって治水土木が発達し開拓が進んだ。寛永18年讃州惣村高帳では生駒河内35石・村田喜左衛門10石が充行われている。寛文3年高尾新田畑,延宝元年宗像林(西の後)新田畑,元禄元年高尾山添大沢新田畑などが開墾された。大谷池は寛文3年~天和3年の20年間6万5,825人役で堤高を4間にした。寛文6年青葉池,元禄3年には大蔵池も造られた。寛文4年井上・宗像2社を岡ノ山へ勧請,大河内十郎左衛門が諸役を勤めたという。寛文7年神恵院本末出入があった。また雲辺寺地蔵院本末争論は元禄5年7月から起こり,同年10月寺社奉行の前で対決する。10月9日戸田能登守宅に初対面,同11年4月永井伊賀守方での仲裁に及んだが成らず,宝永7年雲辺寺が仁和寺御所直末寺に属したことから分裂は決定的になった(三好郡志)。「古法便覧」によると,正徳3年地蔵院は丸亀正玄寺で宝物の勧進を行い,御殿でも宝物が上覧された(香川叢書)。本堂の雨漏りで再建のため各地で勧進し,伊予国中之庄村坂上羨鳥が本堂を再建した(栄義法印代)。万覚帳によれば,幕府は採薬士植村佐平治に案内者2・駕籠者4・駄荷馬者2・薬籠持2・茶風炉2・弁当持2・茶弁当持1・山案内者2,総勢17人を村々から従わせ,薬草を調査させた(三豊郡史)。享保18年は食物がなく,松皮餅・藁餅までつくったという(飢食製法書)。同19年藩主は総勢232人で領内を巡見,地蔵院に参詣した。寛延2年7月井関池では宇手井から1丈3尺(4m)も水があふれ,堤上でも3~4尺(1m)溢流したことから堤は40間(70m)に渡って決壊し,下流地域では田畑は流され,人や家畜が多く死に悲惨な状態になった。翌3年正月大西権兵衛らが13か条の嘆願書を出し,莚旗・鍬・鎌を手にした6万4,000人の百姓一揆が起こった。この年も藩主は領内を巡見した。明和3~9年の大干害・洪水による不作は特にひどく,中姫組20か村は藩から救済策をうけ,また万覚帳に夫食願を出したとある。藩は安永4年倹約令をしいた。天明年間は悪気象で不作になり,同4年五ケ山の蕨を採って食料にし,同5年7月には世直し地蔵を建て平穏を祈った。寛政2年備荒貯穀を実施した。享和2年10月藩主高中,文化11年11月藩主高朗が領内巡見に際して来村,地蔵院に参詣した時の藩主の「お成りの間」に余人が入ることは今も禁じられている。天保9年巡見使平岩七之助が万駄峰に泊り巡見した時,16か村から2,265人の公事人を出し,万駄峰に巡見小屋を造ったり,幅1.5間の道をつけた。地内では「ごじぬけ(御巡見)道」と呼びならわしている(三豊郡史)。嘉永7年厳浄寺新大橋諸用入出帳によれば,地蔵院参詣のために阿波・伊予両国からも集まった寄付金5貫521匁で柞田川に新大橋(幅1.5間・長さ17間,手摺りつき)を架けた。「西讃府志」によれば,村の広さは東西8町余・南北15町余,丸亀からは7里,隣村は東に福田原,南に井関,西に大野原,北に中姫,耕地(反別)は95町余,うち田40町余・畑52町余・屋敷2町余,貢租は米229石余・大麦26石余・小麦13石余・大豆3石余,戸数237・人口1,078(男569・女509),牛65・馬10,溜池としては隣接する中姫村への水掛りをもつ周囲9町・漑田84町余の大谷池など7,神社は氏神井上大明神・宗像大明神ほか15祠,寺院は真言宗大覚寺末地蔵院萩原寺中之坊ほか4堂,井関川は井関池から北流し中姫村に入る。宗像大明神は寛文4年甲辰9月大河内十郎左衛門が村人と相談し今の地に移し,社林4町3反(西讃府志)。地蔵院は境内東西40間・南北60間,寺領3石余,林1所。地蔵院の建物のあった跡と考えられる太刀塚には,掘り出した太刀をもとに返して腹痛が治ったという伝えがあり,腹痛の者は木刀を作って祈ったという。慶応2年に滝川杏庵宅に種痘所を置く。明治3年の庄屋は福田楠太郎。同4年丸亀県,同年香川県,同6年名東【みようとう】県,同8年再び香川県,同9年愛媛県,同21年三たび香川県に所属。明治5年萩原村など9か村を管轄する87区戸長役場を字西中村1262番地岡田弥市宅に置き,戸長に佐伯太美彦,副戸長に岩瀬昌平,また村役に藤川源太郎が就いた。同6年の血税反対一揆では旧暦6月4日に戸長役場・村役宅が焼打ちされた。一揆後,地内では10年の刑,青竹で重い者に500~200回,軽い者には150~50回叩き払い刑,ほかに参加した者に1両2分の罰金が科せられたという。上の薬師堂,下の大河内庵では土佐国の後藤象二郎の兄弟もきて教えたという。明治5年字嘉万坊2355番地の郷倉に萩阜小学校を開設。同8年の戸数369・人口1,903,反別112町余(梶山家文書)。同11年戸長役場を郷倉に置き,戸長を藤川源太郎とした。この時東側に3間梁目引窓の教室2と職員室,北側に便所を新築移転し,教室では蓆を敷き学童は文庫を持参したという。同17年萩原村ほか1か村戸長役場を字大塚1482番地に新築し,戸長を三木幾太郎とし,当村と中姫村を管轄した。明治19年に中姫村の導善小学校を萩阜小学校に合併して敏進小学校とした。同23年市制町村制施行により単独で自治体を形成。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7430177 |