福家村(近世)

江戸期~明治23年の村名。阿野郡南のうち。新居郷に属す。はじめ生駒氏領,寛永19年からは高松藩領。村高は,「寛永17年生駒氏惣高覚帳」1,276石余,「貞享元年高辻帳」1,083石余,「天保郷帳」1,170石余,「旧高旧領」1,190石余。貢租は高松御蔵納,寛永19年高松藩小物成には綿230目とある。庄屋は,享保年間喜左衛門,明和年間孫三郎,安永年間兵次右衛門,天明年間増田平十郎,寛政・享和・文化・文政年間平尾平次兵衛,天保年間同瀬平,弘化~慶応年間同十太郎,明治期井上三次郎(国分寺町史)。また文政11年の高松藩大庄屋小庄屋姓名録には介役に井上安兵衛とある。なお嘉永年間から明治期の阿野郡南の大庄屋に当村綾田正三郎の名がある。明治維新前後には旧釈氏宅で寺子屋が開かれた。金毘羅道の一里塚が上福家にある。修験道本山派の道場として郷中組頭三学院・三蔵院・快長房,当山派として大蔵院がある。江戸期に築造された比較的大きな池に鵜生池(水利高720石)があり,その水は畑田・福家両村に引かれていたが,両村の間に配水のことについて意見の違いが生じ,大庄屋の亀山松之丞が両方の組頭を立ち会わせ用水路の大きさを定め,文久3年に「鵜之池用水取方規定」をつくった。そこには揺の抜き方や溝浚いの道具や方法まで規定され,両村立会いのもとで行われることとされた。なお,この池の水源は香東川の一ノ井関にあり,そこから掛井手で池まで引いてきたので途中で盗水されることが多かったようである。また,役池では親池(鵜生池)の水が宮鼻水門に来るまでには揺抜きしないという規定もあり,これと違う揺抜きは池掛り農民の合議が必要であった。当村を南から北へ流れる本津川の水利権を川下の村々がもっていたため,毎年夏の田植え時期以後になると大勢の百姓が鋤や鍬をかついで川伝いに上ってきて,盗水を防止したり,水車の貯水用横井堰を次々と開放したりして水を下流に引いたという。この川沿いの百姓たちはこっそりと藪かげに井戸や堀を掘り,はねつるべや羽根車(水車)などで水を汲み上げて田に引く者もあったが,特に旱魃のひどい時など小競り合いや水喧嘩も起こったようである(国分寺町史)。「讃岐国名勝図会」には阿野郡南の土産として当村堂山の水晶があげられている。明治4年高松県,同年香川県,同6年名東【みようとう】県,同8年再び香川県,同9年愛媛県,同21年三たび香川県に所属。明治8年の戸数358・人口1,605,反別124町余(梶山家文書)。明治5年柏原・新名・福家の3か村が新名村の満善寺の教場を学校とした。同8年福家小学校を福家本町に開校,楠井に分校が設立された。同20年福家校区は畑田校区と合併し,当村に本校,畑田・楠井両村に簡易小学校を置いた。同23年山内村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7430346 |