南新町(近世~近代)

江戸期~現在の町名江戸期は高松城下の1町高松城の南,城下中心部に位置する寛永17年高松城下絵図には見えず,城下町の南に新しくつくられた町なのでこの町名となったのであろう北半分が1丁目で,南半分が2丁目であった南新町1丁目水帳に「宝永五戊子年改写」とあることから少なくともこの頃には存在していた当町から多くの文人が輩出している俳人亀井楚得は元文~安永年間頃の人で祥雲軒と号し,菓子商を営んでいたようである画家長町竹石は宝暦7年売薬商の家に生まれ,諸種の画法を修め一家をなし,文化3年に没した門弟に中川馬嶺・青山石泉・西原竹屋等がいたまた画家亀井東渓も当町出身で,京都・長崎に遊学し,清人沈南蘋の画風を学び,文化13年に没した(高松市史)当町の大店の1つに池田屋呉服店があった享保年間細渓太四郎によって創設されたと伝えられ,主に絹物類を販売して藩から御用商人に指定されている(高松今昔記)天保14年藩から「絹布郷中江出商之義御停止被仰付候」時,池田屋は「郷中之御家中様ヲ始郷士之御方々様」への出商については認可されたき旨,藩に願出て承認された(丸岡家文書)前記水帳に池田屋の名が見え,安政4年城下絵図によると新井戸の東側,古馬場町の入口角に位置する大店にはこのほかに伏石屋・三倉屋があり,両方ともに前記水帳と安政4年絵図にその名が見える三倉屋はもと備中富山城主と伝えられ,8代目市太夫が嘉永2年に死去している宝暦11年と明和3年に与謝蕪村が讃岐を訪れた時に同家に逗留したというまた,三倉屋は池田屋と同じく御用商人の1人で,藩から扶持米を給されていた市太夫の代に池田屋が3人扶持であったのに対して三倉屋は5人扶持であり,またその頃の俗謡に「あれは御城の三倉屋か」とうたわれたほどの資産家だったが,明治期の終わりには没落した(高松今昔記)新井戸(南亀井町)の嘉永6年水道年賦銀上納割高控によると当町から銀15匁が納められており,新井戸から配水を受けていたようである明治8年の戸数102・人口433(梶山家文書)同23年からは高松市の町名となる同30年頃当町には商家や職人が71軒あり,その当時高松市内では田町に次いで多い業種は27種に上り,うち売薬商6・呉服太物商9・履物商6・足袋商5であった高松市全体でそれぞれの営業軒数は41・56・24・18を数え(繁昌懐中便覧),これら業種の当町への集中は顕著である売薬商の1つに岡内勧弘堂があった同家の売り出した千金丹は全国的にも有名で,各地に行商されたというまた呉服太物商として前述の細渓宗次郎(池田屋)があげられているその頃の讃岐鉄道高松停車場から当町までの人力車賃は60~70銭であった(繁昌懐中便覧)世帯数・人口は,昭和19年末149・788,同21年末119・371(高松空襲戦災誌)同25年ライオン通り商店街で始められた一六デーにならい,丸亀町・片原町・兵庫町とともに一六デーを催した同33年旧1丁目の大部分が丸亀町に編入され,一部が亀井町・鍛冶屋町・常磐町1~2丁目・瓦町1~2丁目・古馬場町となり,西瓦町・田町の各一部を当町に編入世帯数・人口は,昭和40年146・561(男250・女311),同50年87・298(男129・女169)

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7430463 |





