御厩(近代)

明治23年~昭和31年の檀紙村の大字名。明治24年の戸数275・人口1,650(男814・女836),幅員東西13町・南北11町,学校1,水車場2,厩3(徴発物件一覧)。農業地域であるが,江戸期からの御厩焼は津内山山麓に集中して続けられ,製品は香西道と称される里道を北進して香西の港から中国・四国・九州地方や台湾・朝鮮にまで輸出された。明治3年この焼物の始祖彦四郎の顕彰碑が津内山西麓に建てられた。同8年讃岐陶器西部工業組合が設立された。生活様式の変化に伴い,生産品目が植木鉢などとなり,生産方法も次第に機械化されていった。明治43年真宗興正派安正山専光寺が奈良県から移された(古今讃岐名勝図絵)。西讃方面から仏生山法然寺に向かう参詣人が当地を通るため,明治期にはバスが開通した。陶器を運ぶ荷車道が通じたりして,「御厩の五つかいど」と称されるように5本の道が当地を通っていた。鉄道は通らず,昭和24年琴電バスが高松檀紙線を開設し,同25年円座村・上笠居村・香西町まで延長した。同29年江戸期の大庄屋の様式を残す小比賀家住宅(4,620m[sup]2[/sup])は県文化財に指定された。同31年高松市御厩町となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7430479 |





