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饒村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。風早【かざはや】郡のうち。松山藩領。村高は「慶安郷村数帳」では145石余,うち田94石余・畑51石余,「元禄村浦記」145石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに153石余。神社は新宮大明神宮で元禄10年社殿を再建したが「熊野新宮大明神棟札控」によれば「風雨順時五穀成就,右氏子男子弐百四十八人本願成弁」と五穀豊作を248人の氏子が祈願。享保12年には出水により田畑が冠水,翌年ウンカが大発生して凶作となった(未歳御用日記/二神家文書)。安永5年の「懐中万手鑑」によれば上納苫210帖,御林4か所,池8か所,人口は子年(明和5年と推定)326,家数60。大立場(大館場)島は吉木村との入会地,小立場(小館場)島は饒村分であったが,同手鑑に「宇和間・饒御替地ニ而,先年ノ桑名ヘ状継相止申ニ付,小立場・宇和間ヘ相渡シ,尤熊田村ト同断」と宇和間・熊田の入会地になった事情を記す。明治6年愛媛県に所属。「風早郡地誌」によれば戸数83・人口449,牛46,船13,うち漁船1,池7,飛地田3町余が吉木村字浜田にあり畑2町も同様,物産は蕃薯・薪。明治7年小学校教育が里正の豊田諒平宅で開始,同13年字本郷に飯山学校が設立されたが同15年畑里村の蛍雪,吉木村の博英両校と統合,吉木村との境に博英学校成立。明治22年西中島村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7433051