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土佐国


慶長5年関ケ原の戦により長宗我部氏は除封となり,山内一豊が遠江掛川(現静岡県掛川市)から一躍土佐の新国主となった。一豊に先立ち弟康豊が入国,長宗我部時代の旧例尊重などを布達し,一領具足層の動揺や農民の逃亡に対処した。同年長宗我部遺臣により浦戸一揆が発生したが,短期間のうちに平定され,同6年1月一豊は長宗我部氏の旧城浦戸城に入った。入国するや一豊は国内を巡視,諸安堵状などを出す一方,宿毛【すくも】・窪川・佐川・本山・安芸の要地に一門・重臣を配置,支配固めを図った。また背後に高知平野を擁し,浦戸湾から外洋に続く大高坂山の地への新城築造に着手,同8年8月本丸・二の丸の完成により浦戸から移り,領内外から商職人を呼び寄せるなど城下町建設に取りかかった。同年11月本山に配した山内一照の支配に抗し,下津野の有力土豪高石左馬之助が支配下農民を集めて滝山(本山)一揆を起こしたが,まもなく平定,一揆に参加し逃亡した農民の帰村を図り,年貢減免と未進分破棄の処置をとった。大村には庄屋・老など,小村には名本,また山間の小村はいくつかまとめて郷を形成させ郷大庄屋を置き,郡奉行の管下とし,浦分には主要湊に分一役所を設置,浦庄屋を置き,浦奉行の管下として統治機構を整備,慶長17年には75か条の法令を定め,元禄3年には元禄大定目が制定され,藩法による統治方針が規定された。藩政初期には野中兼山が経世済民に卓抜した手腕を振るい,物部川の分流により香長平野と野市の台地を,仁淀川の分水によって高岡平野・弘岡平野を開発したほか,吉野川・松田川流域への灌漑施設や港湾の土木工事をはじめ多くの殖産興業の事業を残した。また沖ノ島・篠山についての土佐藩と伊予宇和島藩との国境争論を解決した。なおこれにより万治2年沖ノ島の中分と篠山頂上の2藩両支配が確定した。しかし兼山の強力な統制を伴う諸策は,安芸郡などでは,代官によって増幅されて苛政として立ち表われ,地方の疲弊を招いた。長宗我部地検帳の石高は24万8,300石余で,これが近世の本田高となったが,寛永地検帳では地高24万7,581石余,新田・新潮田1万890石余,合計25万8,472石余とあり(南路志),寛文4年の土佐国知行高村数之帳によると,村数463,地高24万8,300石余・新田6,050石余で合計25万4,350石余となっている。同7年の郷村石付では本田畑24万7,600石余・新田7万9,900石余の計32万7,500石余。「元禄郷帳」では,村数1,076か村うち本田1,043か村・新田33か村,高は本田24万8,300石・新田2万184石余で合計26万8,484石余。また「天保郷帳」では村数1,076か村・石高33万26石余,明治3年の郷村帳では本田24万7,897石余・新田24万6,193石余の計49万4,090石余となっている。産物としては紙・茶・樟脳・珊瑚・鰹・鯨・木材などがあり,国外へも移出された。材木は長岡郡の白髪山のものが著名。山間部から伐り出された保佐・薪などを含む山方資源は各河川を主に利用して各浦に運ばれ,野中兼山失脚後のいわゆる寛文改替の自由化策の下,繁栄を取り戻した安芸郡の浦々では上方移出を通じて廻船ブームが起きた。土佐薪は盛時には上方市場の6割を占めたと思われるが,資源枯渇,藩の統制,上方問屋商人の買叩きなどを原因に,元禄年間あたりから下り坂となり,それに伴って廻船ブームも急速に衰えていった。土佐は黒潮の潮流に恵まれるため,鰹漁が栄え,鰹節加工で知られ,文政5年の諸国鰹節番付表では,なかでも高岡郡諸浦の鰹節が上位を占めるに至っており,重要な藩財源ともなっていた。土佐の山間部各地では銅山開発などが行われ,藩財政への寄与が図られた。また山間部は低生産地帯であったので,山畑耕作のほか製紙・製茶や椎茸の栽培などを行っていたが,藩は財政の窮乏から紙などの有利な商品を国産方役所の専売にしようとした。これは民衆の生活をおびやかすものであったため,宝暦5年の津野山一揆,天明7年の池川・名野川郷民の伊予への逃散や城下の窮民騒動などの一揆や逃散が起こった。生産諸力の発展は,例えば,土佐国内の16寺を含む四国霊場八十八か所めぐりが元禄年間から次第に盛んとなり,多くの参拝人に親しまれ四国の風物詩となった。一方,宝暦から天明年間にかけての藩専売制の実施の結果,領内問屋商人の活躍の反面,農村は変質して階層分化が促進され,困窮した農民の一揆を頻発させることとなった。また天文年間吉良氏の保護下に発したという海南朱子学は,谷時中によって南学として発展し,さらに闇斎学,谷家の学問として結晶し,国学とともに幕末土佐の精神的支柱となった。幕末には武市半平太・坂本龍馬・中岡慎太郎・吉村虎太郎をはじめ,土佐勤王党の志士たちが活躍した。一方,吉田東洋は山内容堂の信頼を受けて藩政の改革を行い,海南政典を制定するなどしたが,文久2年に暗殺された。その後,後藤象二郎があとを継ぎ,坂本龍馬の船中八策の献策に基づき,大政奉還の建白を行い,明治維新への原動力となった。明治4年全域が高知県となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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