中村(中世)

鎌倉期~織豊期に見える村名。幡多郡幡多荘本郷のうち。弘安4年5月日の前摂政家政所下文に,金剛福寺領として奉免された6町のうちの2か所として「中村内観喜丸名壱丁,同村内曽禰村灯油畠壱丁」,また香山寺領として奉免された5町4反20代のうちの1か所として「中村内小塚大坪壱丁」とあるのが初見(蠧簡集)。正応2年5月日の2通の前摂政家政所下文にも同様に見え,金剛福寺領10町5反および香山寺領5町4反20代が奉免されている(同前)。この地名のうち「小塚」は現在の中村市古津賀にあたる。永仁6年3月日の某袖判宛行状案では「本郷内中村観音寺」が大輔房心慶に宛行われている(蠧簡集/鎌遺19639)。その後曲折があったらしく,嘉元3年3月7日の右衛門尉定康奉書によれば,「幡多庄中村内観音寺」は一時収公され,預所の所務に付されたが,大輔律師に再び返付されている(蠧簡集)。正安2年11月日の左大将家政所下文案には「中村拾斛」と見え,金剛福寺供養の奉加の官米70石が当村などに割り当てられている(金剛福寺文書/蠧簡集)。なお元亨2年成立の「元亨釈書」巻29に「土州中村有一宇,安地蔵像」と見える(国史大系)。南北朝期の建武2年4月7日の蹉跎山四至并供田畠同新免等次第には,前記の「蹉跎山寺免」としての「一,観喜丸弐町」「一,曽禰灯油畠壱町五段」および「香山寺供田畠内南仏房領作分」としての「中村内小坪大坪壱丁」のほかに,前記の弘安4年の前摂政家政所下文案などには具同村内として見える地が「一,同(中)村内早代長田一丁〈但五段ハ坂本屋敷ニ替之〉,一,同村内中津町壱丁,一,同村内芋生灯油壱丁」とあり,当村内として記されている(蠧簡集)。下って応仁2年9月6日,奈良の成就院(大乗院の隠居所)を出発した一条教房は,「大乗院寺社雑事記」応仁2年閏10月6日条に「一,土佐波多ヨリ御書到来,御使者波多郷之内山田庄之内中坊と云者也,九月廿五日申剋乗船土佐之大平知行之山下船云々,大船也,同廿六日酉剋土佐之神浦ニ著御,当所阿ミタ院ニ御休息,同船ニテ土佐之井ノ尻マテ可有御下向云々」,同年11月23日条に「二日ニ猪ノ尻ニ著岸也」とあるように同年10月2日には猪ノ尻(現土佐市宇佐町井尻)に到着した。その後の行動は不明であるが,10月中旬には当村に到着したものと推定される。この時から都市としての中村が発展していった。なお「大乗院寺社雑事記」文明元年8月11日条には「中村闕分事御知行云々」とあり,当地に対する支配が回復しつつあったことが知られる。一条教房の住んだのは「大乗院寺社雑事記」文明3年正月1日条に見える「土佐波多中村館」で,同記では「土佐波多御所」「土佐御所」「中村御所」などと称されている。下って永正10年正月15日の年紀のある五百蔵新平所蔵鐙銘には「於仲村従一条家拝領土佐喜良川城主安岡越後守平重賢」とある(古文叢)。永禄2年3月吉日の康政印判状によれば「本郷中村」の八幡(不破八幡宮)に4か所,3貫分の田地を寄進している(蠧簡集)。一条氏の支配は,教房のあと,房家―房冬―房基と続き,公家大名として発展したが,天正2年兼定が豊後に追放され,土佐統一を進める長宗我部氏によって中村の地も支配されることになる。長宗我部氏によって行われた天正18年の中村郷地検帳で当村にあたるのは,中村築地ノ下・中村築地・中村築地口・中村トウメキ・中村蔵谷・中村宮田少路・中村森本・中村下町・中村羽生谷【はぶだに】・中村・中村御北少路・中村崩岸・中村朽木野・中村左岡・中村左岡畠・中村左岡渡上・中村泉村・中村興ノ東・中村利岡・中村松本・中村米津少路・中村興村・中村佐野少路・立町東町・新町南之町・新町北町・上町北ノ町・上町南町・立町西町・中村山涯・中村引地面・中村下谷・中村上谷・中村大和田・中村中須賀などの小村である。当村分の面積は80町6反余,うち11町余が「散田」とある直轄領,残りのうち59町5反余が221家の有姓家に分散給与されており,幡多の総指揮官的立場にある中村城主桑名弥次兵衛の給地1町5反余が最も多い。城には為松城・東城・御城(今城,桑名弥次兵衛の居城)があり,現在一括して中村城として市の文化財に指定されており,ほかに羽生城も見える。寺院には円明院(寺領13町9反余)・光寿寺(寺領12町7反余)・正福寺(寺領1町9反余)・妙華寺(寺領1町6反余)・森西舞寺・定法院・大円寺・正持院・森山維摩堂・真蔵院・長福寺・大聖院・善正院などがあり,神社には天神社・八竜王・曽我社が見える。前記の小村のうち中村築地ノ下・中村築地・中村築地口の地域は,南はワイタ原(岩崎山の南方)に始まり,北は百笑口【どうめきぐち】に至っており,屋敷数は43,有姓家13家の居住が記されている。また岩崎堤防築地地域も含まれていたと考えられ,当村の西玄関として舟運の要地であった。中村トウメキは23筆,2町4反余で,屋敷数9,有姓家3家の居住が記されており,現在百笑町が残る。中村蔵谷はその奥で,22筆,5町1反余,屋敷数2,現在通称地名として蔵谷が残る。中村宮田少路は同地検帳では3か所に分けて記載されており,総計116筆,13町7反余,屋敷数36,うち有姓家14家,無姓家13家の居住がわかる。この地域は右山境に始まり,若狭・定法院・曽我の前などを含んでおり,その大部分は現在の一条通2丁目の中央より南,右山行旧街道より以西の天神山までの全域を含み,さらに東の崩岸渡上りの一部も含んでいたと考えられる。中村森ノ本は南端の山麓地帯で,総計30筆,3町2反余,屋敷数1である。中村下町は28筆,3町6反余,屋敷数28,有姓家9家の居住が記されている。この地域は現在の大橋通2丁目を中心とした地域で,西は正持院山の南東山麓あたりから現在の山手通南部を含み,東は羽生谷に接しており,かなり広域である。中村羽生谷は天神山と岩崎山で囲まれた谷間をいい,10筆,1町1反余である。天神山と岩崎山の尾根伝いに土生【はぶ】山があり,同地検帳には「羽生古城」とあり,一条家の家老羽生氏の城跡が記されている。小村の中村は同地検帳には2か所に記されており,1つは現在の上小姓町付近,1つはのちの山際付近にあたる。前者は16筆,2町4反余,円明寺寺中と光寿寺寺中がある。この2か寺は一条房冬・房基の菩提寺である。中村御北少路は現在の一条神社参道周辺で,同地検帳に「森山維摩堂」の記載があることから小森山の南側の小地域と考えられる。御北少路分の面積8反余のうち7反余は「御土居」とあり,一条家の屋敷跡の一部と推定され,直轄地となっている。中村崩岸は現在の一条通4丁目東端(亀ノ甲という字がある)から南側の地域にあたり,17筆,2町2反余である。中村左岡渡上の地域は,後川が当村の北で東流し,川向かいの佐岡地内最上流で右折南流する,その右折点の当地側の地域で,総筆数10,1町3反余,屋敷数6,うち有姓家4家が居住する。中村泉村は前記の右折点の上流から現在の東町大通り北端あたりまでの川岸地帯を指し,65筆,7町2反余,屋敷数13で,有姓家10家と無姓家2家が居住する。同地検帳には小村の立町東町の前に「従是市屋敷」とあり市町があったことを示している。はじめのホノギは「町ヤシキ立町東町南ノハシヲトノ少路」で,立町とは横の町に対する縦の町の意で,これは南北の道と考えられる。この市屋敷に含まれる小村は同地検帳の記載順に列記すると,立町東町(屋敷数4)・新町南町(屋敷数22)・新町北町(屋敷数14,堂床1)・立町東町(屋敷数12)・上町北ノ町(屋敷数6)・上町南町(屋敷数3)・立町西町(屋敷数18)・新町北町(屋敷数1)・新町南町(屋敷数2)・立町西町(屋敷数9)であり,総計は95筆,3町6反余,屋敷数91で,有姓家16家・無姓家68家の居住が記されており,無姓家の中には紺屋3・藍屋1が含まれる。現在の本町の一部,京町の一部またはその東の南北道とそれを結ぶ横町付近にあたる。中村引地面は為松山の北部の六助山の北山麓で,後川沿いの狭い地帯にあたり,10筆,1町2反余,屋敷数7で,有姓家3家・無姓家2家の居住が記されている。中村下谷もそれに続く地域で,10筆,1町2反余,屋敷数8で,有姓家5家・無姓家2家の居住が記されている。中村上谷は入道山の下,俗称山崎の谷にあたり,10筆,1町3反余,屋敷数8で,有姓家2家・無姓家2家の居住が記されている。中村大和田は中村上谷の南東にあり,5筆,1町8反余である。文禄3年10月15日の今城藤太夫所領注文によれば,「中村」など10か村に16か所,2町5反余の給地を与えられていた(蠧簡集)。慶長2年3月8日の潮江堤普請指出によれば「幡多中村」に750間,人数にして1万8,000人の役が宛課されている(古文叢)。同年3月24日の秦氏政事記には「一,安喜郡ハ安喜之浜,幡多郡ハ中村下田蔵,中五郡ハ浦戸江悉相揃万之用ニも上ケ所江相集其蔵より出入すへき事」とある(蠧簡集)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7436670 |





