魚梁瀬村(近世)

江戸期~明治22年の村名。安芸郡のうち。土佐藩領。村高は,寛永地検帳41石余(南路志),寛文7年の郷村石付では安喜のうち「柳瀬」として同高,寛保3年の郷村帳でも同高,「天保郷帳」47石余,明治3年の郷村帳では枝郷をあわせて74石余(本田48石余・新田26石余)。元禄地払帳によれば,魚梁瀬村・谷村として本田48石余うち小川重右衛門道番給5石・岡田助六道番給2石余・御蔵知40石余,新田3石余は御貢物地。「土佐州郡志」によれば,「梁瀬村」と見え,北・東は阿波国,西は馬路村,南は北川村にそれぞれ接し,村の規模は東西180町余・南北190町余で,阿波と接した梁瀬山は大部分が土佐に属し,材木・柴は「天下之所仰」にして,「一州良木之所有」と記され,小村の谷村は本村の西に位置し,戸数7とある。寛保3年の郷村帳では,戸数59・人数300(男155・女145),猟銃11,牛7。寺社は大領権現・山神・聖神など9社があり,ほかに真言宗魚梁瀬山当雪院城福寺がある(南路志)。はじめ安芸郡奉行所,嘉永6年からは田野郡奉行所の支配下で,庄屋が任命された。庄屋は北川郷烏ケ森城主北川玄蕃頭の弟三郎左衛門の子孫北川市郎左衛門が,承応元年から御目見・名字帯刀御免,細田7反14代・上下3人扶持をもって当村庄屋・山番となり,のち世襲となった(魚梁瀬村庄屋年譜/馬路村史)。庄屋の補佐役として老(年寄)1人と総組頭1人が置かれた。老は世襲せず百姓中から選び,地下願により認可を得る制であった。農業生産が低い割に年貢が高かったとみられ,凶作年には食糧が不足し,たとえば天明8年の「東郡巡見日記」6月8日の条には「魚梁瀬あり。形の如く飢人多し」として,春には27人が飢死し,「驚入たる事ばかりなり」と記されている。また飢饉のためか,享保12年の阿波海部郡平井村(現徳島県海南町)の棟附人数御改帳には,当村から移住した6名が記されている。なお北川郷西谷名本の「新井来助日記」によれば,寛政13年11月阿波海部郡の百姓が当国甲浦へ100人,当村へ100人ばかり逃散し,大騒動となった(室戸市竹崎重三氏蔵/県史民俗資料)。これは海部郡の郡代沢滝三郎が,厳しい検地を実施し,さらに猟口銀の増徴を図ったために起きたが,12月に逃散した百姓は帰国を命じられた(同前)。当村庄屋北川惣次の年譜によれば,この時当村に逃散した百姓の処置について功労があったとして米4斗を褒美として与えられた(馬路村史)。また馬路村庄屋岩城家年譜指出控でも,庄屋代官佐衛門が同様の理由で御褒詞を与えられたとある(同前)。このほか当村山番門脇伝佐衛門の年譜指出控にも,この時御銀を拝領したとある(同前)。江戸末期に至っても田地は少なく,粟・稗・黍などを主食としていたが,のち大戸谷・谷山から用水溝を設けて米作を行うようになった。当村から馬路村への往還は,谷山村から峠を越し,川平村,中ノ川村,影村,日裏村を経て,馬路村へ出ていた。ほかに当村より山越しに竹屋敷村へ出て,吹越峠を越えて阿波の宍喰【ししくい】(現徳島県宍喰町)方面へ出る脇道もあった。元禄3年の土佐藩大定目には山林大定目が含まれ,魚梁瀬山は「名上」として,土佐十宝山中の随一と讃えられた。仕置役深尾権進の享保10年の意見書にも,魚梁瀬山は上方へも聞こえた材木山であったが,まだ伐採していないのはたのもしいとしている。明治4年の廃藩置県後も何等の被害も受けず国有林に編入された。明治19年高知大林区署開庁とともに,安芸小林区署が管理する魚梁瀬村小林区が設置された。明治4年高知県に所属。明治初年魚梁瀬小学校が設立され,同10年義務教育3年制が実施された。同22年馬路村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7437632 |