大保(中世)

南北朝期に見える地名。筑後国御原郡のうち。正平9年11月の草野孫次郎永幸軍忠状(暦朝要紀所収一井文書/南北朝遺3753)によれば,筑前嘉麻郡方面の一色範光討伐に向かう征西将軍宮懐良親王の軍勢に馳せ参じた草野永幸が,大保の陣で宿直警固に当たったことを上申している。おそらく軍勢の逗留地に選ばれたものであろう。大保のうち高原川の右岸台地一帯を大保原はといい,延文4年(正平14年)8月6日に征西将軍宮懐良親王を奉ずる菊池武光らの軍勢が,少弐頼尚・同資直らの大軍と戦ってこれを破った大保原合戦は,南北朝の戦史に残る激戦として有名である(太平記)。付近にはこの合戦に由来する伝承地や遺跡が多い。西鉄大牟田線大保駅の西方約500m,東野溜池近くの高卒塔婆(たかさつま)は通称将軍塚と呼ばれ,「大保原ニテ戦没セシ将士ヲ埋葬供養セシ所ナリ,今尚此付近ヨリ屡々多クノ枯骨ヲ発掘ス」と刻された石碑が建てられている。大保原は「太平記」では「大原」としており,またその日付も「太平記」「大乗院日記目録」では8月16日のこととしているが,南軍の木屋行実軍忠状(木屋文書/県史資料9)や,少弐方の深堀時勝軍忠状(深堀文書/天満宮史料11),高木貞房軍忠状(同前)および,宗像大宮司宛足利義詮感状(宗像大宮司文書/同前)などによれば,いずれも「大保原御合戦」と称しており,日付は8月6日であったことが明らかである。天正15年,豊臣氏によって御原郡は小早川氏の封地となるが,このうち大保村570石3斗2升が清水五郎左衛門の知行地の一部に当てられている(萩藩閥閲録25)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7438926 |





