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上毛郡


天正15年の豊臣秀吉の九州仕置によって当郡は統一政権下に組み入れられ,秀吉は当郡を京都【みやこ】・仲津・築城・下毛・宇佐郡とともに黒田孝高(如水)に与えた。しかし,慶長5年関ケ原の戦により黒田孝高の子長正は筑前52万石に移り,代わって豊前一国と豊後2郡を与えられた細川忠興が当郡を領有することとなった。細川氏ははじめ豊前下毛郡の中津城にいたが,慶長7年企救郡に小倉城を築いて移り,小倉藩が成立した。こうして当郡は小倉藩領となったが,寛永9年細川氏は肥後国に54万石に加増・転封となり,当郡はかわって播磨国明石より豊前6郡15万石を与えられて小倉に入部した小笠原忠真の小倉藩と,播磨国竜野より豊前2郡8万石を与えられて中津に入部した小笠原長次の中津藩領とに分割支配されることになった。小倉藩主小笠原忠真が細川氏から引継いだ表高は2万762石(内高2万6,756石)で,東上・東下・小祝・土佐井・緒方・西友枝・成恒・広瀬・堀立・黒土・小石原・岸井・市丸・安雲・志利高・矢方・梶屋・赤熊・今市・荒堀・四郎丸・河内・鳥越・大・野田・青畑・大西・才尾・山内・大河内・下河内・岩屋・篠瀬・鳥井畑・八屋・川底・薬師寺・河原田・鬼木・塔田・吉木・清水町・恒富・小犬丸・久松・小石川・三毛門【みけかど】・三楽・森久・六郎・皆毛・高田・狭間・永久の54村,中津藩小笠原長次(忠真の甥)が細川氏から引継いだ表高は6,647石で,原井・百留・上唐原・下唐原・垂水・広津・今吉・楡生・幸子・鈴熊・吉岡・宇野・八ツ並・中・土屋垣・直江・別府・大瀬・土佐井の19村であった。また,寛文11年に小倉藩の新田分1万石をもって成立した小倉新田藩は,貞享2年当郡に26か村を分与されたため,以後当郡は小倉藩領・中津藩領・小倉新田藩領の3藩領に分割支配された。村数と石高は,「正保国絵図」2万5,898石余,「元禄国絵図」77村・3万113石余,「元禄郷帳」73村・3万113石余,「天保郷帳」73村・4万495石余,「旧高旧領」75村・3万8,110石余。所領別内訳は,「寛文朱印留」では小倉藩領54村2万761石余・中津藩領19村・6,647石余,「旧高旧領」では小倉(豊津)藩領31村8,061石余・中津藩領22村・9,469石余・小倉新田(千束)藩領26村1万579石余(うち小倉藩領と中津藩領の相給村が4村)。所属する村名は,「天保郷帳」によると,東上・東下・西友枝・土佐井・尻高・矢方・河原田・大・鳥越・河内・四郎丸・八屋・赤熊・鳥井畑・篠瀬・岩屋・大河内・川底・下河内・山内・才尾・青畑・大西・狭間・薬師寺・永久・沓川・三毛門・小祝・黒土・鬼木・塔田・野田・荒堀・今市・吉木・清水町・恒富・小犬丸・久松・三楽・安雲・緒方・成恒・広瀬・岸井・堀立・梶屋・市丸・森久・六郎・小石原・皆毛・高田の各村。元和8年「人畜改帳」によれば,求菩提山を除いた家数2,278,うち本百姓・小百姓・惣庄屋家682,名子914・牢人36,本水夫13,水夫名子27,牛馬小屋547,人数4,449(男2,442・女2,007),牛524・馬247,求菩提山の家数243,うち本坊家分63,庵室家ノ分79,部屋・名子・下人ノ家50,馬屋51,人数459(男261・女198),馬56。寛永9年の小倉藩領分の戸口は3,198戸・7,176人(男3,873・女3,303)であった(豊前六郡人畜帳/御当家末書)。小倉藩領では山内・鳥越・友枝・大村の4手永に分け,中津藩領では19か村をもって唐原組(のち中村組)とし,それぞれ大庄屋の管轄区域とした。貞享元年築城郡内にあった小倉新田藩(1万石)の所領22村を当郡内の26村と交換した。これにより貞享2年手永の編成替えが行われ,小倉藩領は友枝手永(東上・東下・西友枝・土佐井・尻高・矢方・川原田・大・鳥越・川内・四郎丸・八屋・赤熊の各村),三毛門手永(鳥井畑・篠瀬・岩屋・大河内・川底・下河内・山内・才尾・青畑・上大西・狭間・薬師寺・永久・沓川・三毛門・小祝の各村)の2手永,小倉新田藩領は黒土手永(久路土・鬼木・下大西・塔田・野田・荒堀・今市・吉木・清水町・恒富・小犬丸・久松・三楽の各村),岸井手永(安雲・緒方・成恒・広瀬・岸井・堀立・梶屋・市丸・森久・六郎・小石原・皆毛・高田の各村)の2手永(田畠826町)となった。中津藩側も19村であったがのちに垂水村を上垂水・下垂水に分け,小犬丸村が広津村から分村して21村となった。小倉新田藩ではこの2手永支配のため奉行を任命したが,農村支配は本藩の郡代のもとに統一されており,家老も本藩から派遣された。中津藩では藩主小笠原長胤の時期に藩政紊乱し,元禄11年長胤は小倉藩預けとなり,4万石に減石されて長胤の実弟長円が襲封した。享保元年藩主長(長円子)が死亡し,嗣子なく改易となり,翌享保2年奥平昌成が中津に入城し,引き続き上毛郡唐原組19村(高6,985石,物成3,651石)を所領した。享保17年飢饉餓死者は6,175人(奥平領を含まず)。小倉藩と小倉新田藩側の寛延3年領内人別改帳(御当家末書)によれば,人口は1万5,377人(男7,901・女7,476)である。文化9年中津藩の下毛郡で農民一揆が起こり,これが当郡の中津藩領に伝播し,大庄屋・庄屋などの家が打ち壊わされた。山国川川口の小祝村は,小笠原氏入国当初から小倉・中津両藩のいずれに所属するか問題があり,小祝の漁民が中津城下で乱妨をすることを理由に領地交換の議が中津藩から起こった。この機に小倉藩では宇島大築港計画をたて,文政4年から8年までの歳月と莫大な工費をかけて周防灘に面した良港を竣工,同時に小祝の漁民をこの地に移した。薬師寺村の恒遠醒窓は広瀬淡窓・高島秋帆に学び,文政7年薬師村で私塾蔵春園を開いた。塾生は関西以西・九州一円から雲集した。対長州戦のさなかの慶応2年8月1日小倉藩が小倉城を自焼して戦線を後退した日,郡内の小倉藩領および小倉新田藩領で農民一揆が起こり,村役人や富豪の家が打毀に遭った。慶応3年小祝村換地問題が再燃,ついに小倉藩領小祝村および八軒屋(高浜)と中津藩領の直江・土屋垣・別府の3村の内と交換に決した。明治2年版籍奉還が行われ,中津藩知事奥平昌邁・豊津藩知事小笠原忠枕が生まれ,小倉新田藩主小笠原貞正は当郡塔田原(別名千塚原)に居館を持ったので藩名を千束【ちづか】藩とし,その知事になり,それぞれ旧領を支配した。明治4年7月廃藩置県で各藩知事は職を免ぜられ,当郡内は旧領にしたがい中津県・豊津県・千束県となり,11月には豊前国一円をもって小倉県が成立,当郡は小倉県のもとに一円支配が行われることになり,千束支庁は廃されて中津に支庁を置き,上毛・下毛・宇佐の3郡を管下とした。慶応2年春の中津藩領を除いた戸口は3,550・1万6,199,寺院26(県史3‐下)。明治5年戸籍編成のため第60~67区の8区が設けられ,83村,7,129戸・3万2,256人となった(築上郡誌)。同6年の大区小区制で小倉県第6大区となり,旧区は1小区から8小区の呼称となった。同8年小区制は藩政時代の大庄屋管轄の区域(手永・組)に復して5小区制になった。寺院は33,うち真言宗1・禅宗7・真宗25(同前)。同9年4月18日小倉県は福岡県に合併,当郡域は福岡県豊前国第6大区となった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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