薦田(中世)

鎌倉期から見える地名。郡所属は明確でないが,初め筑前国穂波郡に属し,のち嘉麻郡に,さらに穂波郡に復したとみられる。鎌倉初期に薦田別符,室町期に薦田荘,戦国期に薦田村と称した。鎌倉初期と推定される宇佐弥勒寺喜多院所領注進状(石清水文書2/大日古)に弥勒寺喜多院領のうちに「薦田別符〈六十丁〉」が見える。薦田郷の加納によって成立した別名であろうか。室町期には荘名を付して呼ばれた。すなわち文安6年9月18日の大鳥居信尭・信顕連署注進状(太宰府天満宮文書/博多史料2)に安楽寺領のうち,大鳥居氏知行分と思われる所領群中に「薦田庄之内大浦寺田地」と見える。ただこれには「大浦寺之内砥上村之内田都王丸名」が付属されていた。戦国期には,文明10年10月13日,大内政弘はその被官の警固屋掃部助忠秀に「同郡(嘉麻郡)薦田村金丸十石地〈田数二町,同人(山田美作守)跡〉」以下を宛行っている。ところで天文16年2月26日の紀年のある薦田三島宮の棟札銘に「穂波郡金丸庄薦田村」とあるが(太宰管内志),薦田村が金丸荘内にあったというのは検討を要する。なお,天正年間の「指出前之帳」には穂波郡のうちに「薦田村」が見え,田20町余・分米320石余,畠29町余・分大豆134石余とある。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7440261 |





