中村(近世)

江戸期~明治22年の村名。御井郡のうち。はじめ柳川藩領(田中氏),元和6年からは久留米藩領。北野組に属す。村高は,「元禄国絵図」1,272石余,うち6石余は北野天神領,「在方諸覚書」の古高1,750石余,「天保郷帳」1,274石余,「旧高旧領」1,833石余。床島堰渠工事を宝永7年藩庁に願い出た21か村に加わり,工事完成により床島用水による灌漑地域となる(筑後川農業水利誌)。文化4年の田111町余・畑20町余(農政農民史料集)。宝暦4年の一揆では多くの農民が参加し,3月27日には北野大庄屋に打ち崩しを通告,4月には銀米差し引きを要求し北野天満宮に1,000人が集会する(高橋音門筆記)。なお,この一揆で北野大庄屋秋山喜市郎は職務不良として2里四方追放,当村百姓茂蔵は「人品よろしからず」という理由で5里四方追放となった(宝暦四甲戌歳騒動御制詞)。村の北方水田地帯の中にある造出・彼坪の集落は,安政5年隣村今山村の山口利助が水害で荒廃した土地開発のため,約6町歩の水田と数頭の馬を無料で農民に与え,移住させ農耕に従事させたのにはじまる(北野町史誌)。現在今山にある天竜山明善寺・法栄山長福寺はともに地内にあった(寛延記)。浄土宗医王山西方寺は,天喜年間の開基といわれ,寛永7年の再建。大島の一目連神社は,天保6年藩主有馬頼徳が伊勢桑名領多度山一目連神社を水害除け祈願のため勧請したもの。明治17年の戸数169・人口897。同22年北野村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7441936 |





