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三池荘(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える荘園名。筑後国三池郡のうち。三毛荘とも書く。近衛家領。近衛兼経の日記である「岡屋関白記」の寛元4年正月22日条(大日料5-21)に,当荘は故右大臣道経の後室の知行と見える。しかし,建長5年10月21日成立の近衛家所領目録(近衛文書/鎌遺7631)によれば,三池荘など4荘は,将来外孫の近衛道経に寄せる旨を託して,平信範から娘建礼門院内侍(道経母)に譲られたとあるから,同荘は平安末期には平信範家領であったと思われる。「岡屋関白記」には「近年不調沙汰出来之間,不能貢納云々」とあり,この頃領家側の在地掌握に困難が生じていたものとみられる。荘域は白銀川を挟んで北郷と南郷に分かれ,北郷には甘木・深浦村に深堀氏,弥富名・倉永名等に相良氏,池田村に神氏,南郷には安芸氏が各々地頭職を保持したが,彼らはいずれも東国系の御家人であった。文永11年7月1日の筑後守護所注文(田部文書/鎌遺11683)によれば,弥富名・倉永名では相良氏領と得宗領(前武州給)とが錯綜しており,また弥富名福丸簀の支配をめぐって相良氏と神氏とが争うなど,複雑な在地状況を示している。安芸氏は建治・弘安の頃三池に入部して在地領主となり,三池氏を名乗るが,次第に南郷での下地支配を確立し,建武2年8月4日には領家近衛公量と三池貞家との間で和与による中分が成立した(大竹氏所蔵三池文書/大日料6-2)。観応2年7月19日,近衛基嗣は三池荘南北を洛北の楞伽寺に施入(楞伽寺記/群書15),34年後の至徳2年12月5日足利義満は三池荘ほかを「度々の寄付の旨に任せて」同寺に安堵しているが(海蔵院文書/三池荘史料),以後同荘の支配に関する史料は見られなくなる。しかし,戦国期永正9年の銘を持つ劫月院址六地蔵供養幢に「筑後刕三池庄劫月院云々」とあり(有明地方石文集),また永禄6年8月28日に三池上総介親員が太宰府天満宮にあてた社領寄進状(太宰府神社文書/三池荘史料)に北郷・南郷各1町のほか,「庄内」1町の記載があることなどから,ほとんど荘園体制が崩壊した戦国末にも,在地ではなお荘域の認識はあったものとみられる。白銀川流域を中心に,北は甘木丘陵一帯から,南は三池町付近に至る地域に比定される。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7443331