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三池藩(近世)


江戸期の藩名柳川藩の支藩柳間詰の外様大名「藩政総覧」によると,表高1万石,内高1万1,979石余,収納高4,130石余,給知高1,627石余,藩士数180人当藩の出発は,柳川藩主立花宗茂の弟の高橋直次が,豊臣秀吉の九州平定・朝鮮出兵の功により,天正15年に三池郡のうち江浦,文禄4年に同郡のうち1万8,110石余を給付されて江浦城を居城とし,同年朱印状を受けて居城を内山に移したことに始まる文禄4年立花家知行目録によれば,うす井・一武954石余,堺229石余,ふじこ843石余,かたひら501石余,ひらの380石余,田崎582石余,下二分1,697石余,豊持242石余,とうか824石余,まこめ824石余,草木940石余,おかまつ100石余,豊永979石余,下内440石余,深倉210石余,たくま704石余,上宇治509石余,町・大間689石余,あまき592石余,本248石余,久福木669石余,みやへ418石余,尾尻205石余,ふかうら345石余,ひらかま698石余,高泉806石余,いま山1,183石余,いけ田122石余,ふすへ95石余,いちいの522石余,勝立237石余,教楽木289石余,よしかた藤田10石余が当藩領に該当した(大牟田市史)高橋直次は,関ケ原の戦で西軍方となったため改易となり,慶長19年常陸国筑波郡柿岡に5,000石を領することになり,立花氏に改姓したこの間,筑後一国は田中氏が支配したが,元和6年同氏も改易され,翌年直次の子種次が加増されて,15か村,1万石(田畑950町余)の地に復領となったこの15か村は今山村新町分・大牟田村・稲荷【とうか】村・下二部村・下里【さがり】村分早米来【ぞうめき】村・加納開・教楽木【きょうらぎ】村・櫟野【いちの】村・勝立村・臼井村・馬籠村・片平村・藤田村・船津村・一部村であり,陣屋を今山に構え,ここに三池藩が再興された(県史資料4・大牟田市史)なお,旧領復帰については,元和6年柳川に入った立花宗茂が,翌年に分与したものとの経緯も伝えられている(筑後封植録・筑後地鑑・筑後誌略)領内人数は,慶安元年男1,814・女1,325,承応3年男1,814・女1,325,寛文12年男2,434・女1,787用水は,旧慣により,諏訪川の熊本藩玉名郡井手村の深瀬磧から取水して藤田村・船津村などに引いており,代替として井手料1町と溝料5反の地を供出していた(寛文13年覚書/永青文庫)この磧は,寛永7年以降の境争論の対象となり,「元禄国絵図」でも「国境不相知」と記されるほどであった寛文4年早鐘池,延宝2年水路橋(早鐘眼鏡橋,国重文)が築造された元文3年稲荷村で石炭の採掘が行われ,寛政2年には石山法度が定められ,石山御用掛も置かれて藩営とし,商人請負制をとった嘉永4年請負制から直営とし,新たに生山坑を開いた安政4年柳川藩の平野山坑との間に紛争を生じ,明治初年まで続いた(大牟田市史)安政3年には石炭1万斤を幕府に献上している寛政5年に幕府の若年寄となった種周は,文化2年機密漏洩の罪で若年寄を解任され,蟄居に処せられ隠居に及んだその子種善は,翌年陸奥国伊達郡下手渡(1万石)に転封となって,当地は西国筋郡代となるのちに多くは柳川藩預け地となった嘉永3年,種善の孫種恭は,今山村1,748石余・125町余,新町分214石余・15町余,稲荷村1,303石余・87町余,一部村1,143石余・87町余,下里662石余・56町余の5か村,5,000石余の所領を与えられ,明治元年下手渡から三池郡に復帰し,三池藩が再び立藩された同4年7月14日廃藩置県により三池県となる




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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