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三潴郡


明治11年~現在の郡名。明治11年郡区町村編制法により近代の郡として改めて発足。同年11月12日の県布達によれば,当郡に所属する町村は榎津町・小保町と津福・津福今・白口・荒木・下荒木・宮本・安武本・武島・住吉・中津・夜明・藤吉・黒田・草場・原田・高三潴・早津崎・田川・今・玉満・西牟田・生岩・笹淵・前牟田・福土・大角・清松・一丁原・福光・蘆塚・下田・浜・内野・城島・大依・六丁原・楢津・江上上・江上・江上本・原中牟田・江島・四郎丸・上青木・下青木・西青木・青木島・浮島・鐘ケ江・道海島・下林・中古賀・諸富・酒見・津・幡保・郷原・鬼古賀・北古賀・荻島・土巻・九網・一ツ木・大野島・新田・間・紅粉屋【べにや】・七ツ家・坂井・三ツ丸・田脇・吉原・久々原・南浜武・西浜武・古賀・奥牟田・高橋・大藪・三八松・筏溝・蒲生・金納・高島・立石・矢加部・東蒲池・西蒲池・横溝・蛭池・侍島・上木佐木・下木佐木・上牟田口・絵下古賀・八丁牟田・上八院・中木室・商人・中八院・北中牟田・本木室・下白垣・上白垣・下八院・下牟田口・向島の各村(県史資料2)。郡役所を宮本村・久留米両替町や犬塚村字十間橋に移したりしたが,明治18年からは榎津町に定置した。明治17年の戸数1万4,776・人口7万7,913(同前)。同22年市制町村制施行により,所属町村は大川町と鳥飼・荒木・安武・大善寺・三潴・犬塚・大溝・江上・城島・青木・木室・木佐木・三叉・川口・田口・久間田・浜武・蒲池・大莞【おおい】・西牟田・大野島の各村となる(県史資料3)。この時,明治11年に御井郡に移った5か村のうち大石・梅満・長門石・白山の4か村は再び当郡に復して鳥飼村の一部となった。同24年の戸数1万5,174・人口8万6,710(男4万3,965・女4万2,745),地積は田7,271町・畑1,102町・宅地567町,耕作戸数9,268(自作4,558・小作4,710),牛63・馬4,153,荷車2,228,会社5,銀行2,衆議院議員選挙有権者数1,506(県統計書)。明治13年郡長指導により行われた螟虫駆除運動に対し郡内27か村の農民の反対暴動があった。同22年の筑後川の大洪水は沿岸21か村,8,912戸が罹災,流失家屋186戸,浸水耕地6,921町,荒地化95町を出した。同35年の「県統計書」によれば,戸数1万6,367・人口10万560(男5万412・女5万148),農業人口5万3,322(専業4万2,096・兼業1万1,226),工業人口1万2,098(専業9,544・兼業2,554),商業人口1万8,999(専業1万4,906・兼業4,093)。会社数23(農4・工7・商12)。耕作反別は県下有数の米作地帯で田7,384町(自作3,610町・小作3,774町)・畑1,089町(自作629町・小作460町)。特殊な作付に藺草・七島約250町がある。同39年の記録では,伝統的工産物として久留米絣37万4,000反(織戸数3,387),茣蓙103万5,000枚(同1,262),花莚5万1,000本(同1,531),大川の建具・指物45万2,000円(製造戸数350),城島瓦466万枚(147戸),清酒醸造6万8,000石(酒造戸数46)があった。米麦類をはじめこれら物産の積出し港の大川町若津には,明治初期から大阪商船・尼ケ崎商船支店や三井物産の支店が設置され,商品移出額は同12年は139万円余にのぼった(大川風土記)。しかし,港の繁栄も中期までで,大正初期には九州鉄道の路線延長,三池港の新設などにより衰退をたどり,その救命の一策として大正元年,若津港を起点とし筑後川左岸辺りを経て久留米市に至る大川軽便鉄道が創業した。明治26年,筑後川中流末の右岸部,四周を堤防に囲まれた輪中村落鳥飼村長門石は,農業用水不足を解消するため,蒸気発動ポンプによる筑後川からの揚水を企画,当時は他に類例がなく苦心の末ようやく同32年に事業完成,九州最初の機械力揚水に数えられる。これに刺激され,筑後川改修工事の進行も幸いし,「水近けれど水を得ず」という状況にあった中流部諸村(三井郡)は耕地整理と結合して蒸気力揚水を取り入れ,沿岸の畑作地はほとんど米作地化した。その後,大正2年から昭和2年にかけ,揚水技術の発展に基づき北部三潴地区12か村は3,596町にわたる共同耕地整理事業を実施,当時,全国一と称された。新たに筑後川に堰を築き電力で揚水,山林・原野を236町から7町に,畑716町を15町に減じ,田は2,039町から3,112町に増大,大正14年,八女郡の矢部川上流に設けた自家用発電所から揚・灌水動力用の電力を送った(三潴郡耕地整理共同会誌)。これに刺激され,南部地区でも大正期末から耕地整理に取り組み,これまでのクリークからの足踏水車による揚水を電動化した。明治33年城島村が町制施行。大正6年鳥飼村が久留米市に合併。同12年郡制が廃止され,以後は地域称として存続。同15年郡役所廃止。昭和12年久間田村と浜武村が合併して昭代村が成立。同14年大善寺村,同24年荒木村,同28年西牟田村が町制施行。同29年大川町と三叉・川口・大野島・田口・木室の各村が合併して大川市が成立,次いで翌30年大溝・木佐木・大莞の3か村が合併して大木町が,荒木町・安武村が合併して筑邦町が成立。同年昭代村・蒲池村が柳川市に,江上村・青木村が城島町に,西牟田町が筑後市にそれぞれ合併し,犬塚村・三潴村が合併して三潴町が成立(昭和32年旧西牟田町8区を編入)。同31年大善寺村が筑邦町,同42年筑邦町が久留米市に合併。現在大木・城島・三潴の3か町からなる。大正14年の有権者数1万9,769人。同15年の田7,927町・畑288町・宅地612町・山林218町・原野48町(県統計書)。交通面では昭和10年国鉄佐賀線開通に伴い大川駅設置,筑後川の昇降可動橋を架設,同12年の九州鉄道久留米~柳川間の運行開始,大川鉄道・九州鉄道の合併によるバス路線化などがある。現在,旧三潴地区の筑後川左岸一帯は,圃場整備事業と結合した国営の灌漑・排水事業が大がかりに進行,不安定な筑後川のアオ(淡水)取水という数百年来の伝統を廃して水利の近代化を達成し,耕地の合理的利用を図るもので,複雑なクリーク体系を結合し,60年度にすでに完成した安武大堰から全域に導水,用排水系統の再編成が進行している。世帯数・人口は,大正9年1万6,556・9万3,277,昭和25年2万2,185・12万8,786,同60年1万76・4万1,927。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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