岩野村(近世)

江戸期~明治22年の村名。松浦郡のうち。大久保村ともいう。はじめ唐津藩領,慶安元年幕府領,同2年からは唐津藩領。打上組に属す。「慶長国絵図」では「大久保 湊ノ内」とある。村高は,元和検地では103石余,「正保国絵図」では98石余,延宝7年には104石余,「天保郷帳」「旧高旧領」では107石余。元和年間には古河伝右衛門(87石余)・堀田金右衛門(16石余)の知行地であった(東松浦郡史)。寛政元年頃の田数4町余・畑数3町余,家数16・人数78(男41・女37),馬6・牛6(巡見手鑑)。文化年間頃の田畑高104石余,古高98石余,畝数7町余,年貢率は4割7分2厘,家数15・人数81(男44・女37),馬6・牛10,氏神山王権現社の祭礼は11月初申ノ日(松浦拾風土記)。天保9年頃の村高は新田2石余を加えて107石余,畝数7町余,馬5・牛10,家数18,人数78うち男43・女35(巡見手鑑)。寛政元年の巡見使土屋忠次郎と岩野村庄屋との問答の中で,「前方大久保加賀守様御居城の節,御苗名に差合候に付て,当時岩野村,只今にては大久保村共岩野村共両用仕候」とあり村名の由来を述べ,また畑作物は麦・サツマイモその他の雑穀であると述べている(同前)。明治4年唐津県・伊万里【いまり】県,同5年佐賀県,同9年三潴【みずま】県・長崎県を経て,同16年佐賀県に所属。「明治7年取調帳」では,枝村に高野村・加倉村・八床村・菖蒲村がある。「郷村区別帳」では,加倉村の枝村として見える。「明治11年戸口帳」によれば,1村として見え,戸数18・人口83。明治3年の庄屋は原野善右衛門,家数17であった。同17年中等呼子小学校岩野分校が設置された。明治11年東松浦郡に属し,同22年打上村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7444484 |