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大浦村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。藤津郡のうち。佐賀本藩領。鹿島郷に属す。「慶長国絵図」に村名が見え「浜ノ内」とある。「宝暦郷村帳」「天明郷村帳」に村名が見える。村高は,「正保国絵図」では293石余,「天明村々目録」では292石余,「天保郷帳」では344石余,「旧高旧領」では760石余。「玄梁院様配分帳」「大小配分石高帳」ではともに諫早【いさはや】豊前が地米高260石余を知行する。文化8年請役所達帳には,大浦村は中畑・たりかと・広江・亀ノ浦・平野・道下・里・み禰・野上を含むとある。天保3年諫早領反別調べによれば,田地24町余・159石余,畑地42町余・101石余,屋敷地6畝余・2斗余(太良町史)。安政2年の村絵図によれば,大浦川(亀ノ浦川)の河口域には新田があって海岸部には土居が築かれており,とくに右岸方向の集落には土居によって船着場が築かれ,大浦津と呼ばれている。神社として,浅間神社・諏訪神社・熊野神社・平野神社・鹿山神社・白山神社・春日神社・矢房神社・天神社がある(藤津郡村誌)。今里にある浅間神社の創建は貞観3年といわれ,甲斐国浅間神社の分霊とされ,諫早家の保護を受けた。里にある諏訪神社の創建は応永4年,天正年間には諫早家の家臣喜多氏の信仰を篤く受けた(太良町史)。寺院は,中畑に浄土真宗本願寺派松尾山正恩寺,竹崎に同宗同派岩城山光福寺,田古里に浄土宗授徳山正伝院がある(藤津郡村誌)。また平野の裏山に観音像が祀られ,台座に刻まれた建立の由緒によれば元禄11年寅9月,僧学甫・僧空山・石井宗仙の3名が民生安定・五穀豊饒・諸病退散・家運隆盛を祈願して建立したとある。天災と疫病による死亡者数は正恩寺過去帳に見えるだけでも,宝暦7年51人,享和3年56人,安永2年62人,同3年58人,同4年52人,同5年77人,天明4年65人,同5年60人,安永元年51人,文政2年50人,同4年56人(うち子供18人),文政7年72人(大部分が子供),文政11年49人(8月9日大暴風雨),天保3年70人,天保11年57人,天保15年65人,文久2年53人,慶応2年85人とある。当時正恩寺の檀家数は250戸ぐらいであったといわれる(太良町史)。寛延2年の御家騒動に端を発する農民の訴願に対し,佐賀藩主は諫早領のうち14か村に3か年召上げの断を下したが,当村もその中に含まれていた。当村には長崎脇街道が通り佐賀藩・福岡藩の長崎警備ともあいまって幕府の役人をはじめ往来が頻繁となった。この脇街道はかなり起伏も多いが,海岸道路がないため主要道路であった。明治4年佐賀県・伊万里【いまり】県,同5年佐賀県,同9年三潴【みずま】県・長崎県を経て,同16年佐賀県に所属。「明治7年取調帳」では枝村に竹崎村・田古里村がある。「郷村区別帳」では枝村に竹崎名・差配名・牟田名・今里名・津浦名・木村名・亀ノ浦名・中畑名・平野名・広江名・野揚名・里名・広谷名があり,反別189町余。「明治11年戸口帳」では,当村は田古里村(187戸・792人),竹崎村(69戸・321人),大浦村(313戸・1,217人)に分かれており,合計戸数519・人口2,330。道路は,西部から南部に通る諫早往還,北部から南部にぬける下目往還,それに竹崎往還がある。税地として,田61町余・畑113町余,地租金2,132円余,主要物産は米1,000石余・大麦800石余・裸麦700石余,その他小麦・大豆・甘藷・黒砂糖・茶・楮皮・櫨実などがあり,職業は農業433戸(うち男407・女26),商業13戸(うち男10・女3),工業15戸,漁業60戸。学校は,明治7年中畑に修身小学校,田古里に拡充小学校,竹崎に善誘小学校の3校が開校。同11年3校は合併し,亀ノ浦に大浦小学校が設置となり,同年大浦尋常小学校となる。「太良町史」によれば,同19年の大浦小学校の生徒数は73名(男65・女8)。同22年市制町村制施行により単独で自治体を形成。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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