唐津城下(近世)

江戸期の唐津藩の城下町。松浦郡のうち。初代唐津藩主寺沢志摩守広高が慶長7年から同13年にかけて唐津城を築き,築城と並行して松浦川河口に城下町を建設し,町割りを行った。寺沢志摩守が上松浦地方を領有したのは文禄2年のことで,豊臣秀吉によって改易された波多三河守親の遺領および草野鎮永の旧領など6万3,000石を得,その後筑前国怡土【いと】郡に2万石,慶長6年には関ケ原の戦の戦功により肥後国天草郡に4万石を加増され,12万3,000石の大名となった。寺沢氏はまず田中村(現北波多村)に仮城を構えたが,海上交通に至便な唐津湾に面した満島【まんとう】山に築城を開始した。満島山は当時満島(水島)と陸続きであったが,満島との間を掘り切って松浦川河口とし,満島山は西の方と陸続きとして満島山を本丸とした。松浦川の流路の付け替えは城の防御と水運の便をはかるためであった。また,満島山にあった天神社・松浦不動尊・八幡社・津守観世音・熊野権現・草野不動尊などは満島や城下大石町などに移転させた。築城の用材は肥前名護屋城の材料を移したと伝えられる。築城は西国諸大名の助力を得て行われ,肥後堀・薩摩堀・長州堀・佐賀堀などの名が残る。慶長13年に完成した唐津城は上・中・下の3段の石垣をめぐらした本丸と薩摩堀と呼ばれる内濠堀で囲まれた二の丸,肥後堀・柳堀などの外濠堀に囲まれて城下町を隔てる三の丸で構成され,本丸上段には天守台があったが,天守閣は建てられていない。二の丸には藩主が居住する御殿と政庁,重臣の屋敷などがあり,三の丸には上級家臣の屋敷があった。唐津は舞鶴城とも呼ばれ,北に玄界灘,東西に松原の海岸を控える美しい城である。なお,唐津藩主は寺沢氏が正保4年改易となり,1年間は幕府領となったが,慶安2年大久保氏が入部し,以後延宝6年松平氏(大給),元禄4年土井氏,宝暦12年水野氏,文化14年小笠原氏と譜代の大名が交代した。唐津城下の地は,築城以前は松浦川・波多川・町田川の河口が形成する潟や砂州で「地切」と呼ばれ,満島山周辺の砂州にわずかな漁夫が居住しているにすぎなかったが,寺沢氏は築城と同時に城下町を建設し,町割りに着手した。「松浦拾風土記」に「壱万石壱町宛にして拾弐町と極る」とあるように,最初の町割りは高12万石余に対して,刀町・米屋町・呉服町・魚屋町・本町・大石町・紺屋町・中町・木綿【きわた】町・材木町・京町・八百屋町の12か町が設けられた。さらに今後の知行増を見込んで船頭町・坊主町・水主【かこ】町・柳町・八軒町・弓野町・下町・鷹匠町を設けたという。近世中期には築城時の十二か町のほかに平野町・新町・塩屋町・東裏町・江川町の町名が数えられ,惣町十七か町と称するようになった。ただし,江川町ははじめは下級武士の居住地である組屋敷町であった。これらの町人地は,町田川を境にして内町と外町に分けられる。内町は城下町の中央部,三の丸の南側にあり,北は柳堀,ほかの3方は町田川に囲まれており,米屋町・八百屋町・紺屋町・呉屋町・京町・中町・本町・木綿町・刀町・平野町・新町の11町がある。内町には城内への大手門のほか,周囲の堀に名古屋口・町田口・札の辻ノ橋が架けられていて他地区と区別され,各橋口に設けられた木戸は午後9時には閉められ,以後の他地区への出入は禁じられていた。外町は城下町の東部,町田川に架かる札の辻ノ橋を境にして内町の東方にあり,松浦川河口に面する,外町には材木町・大石町・魚屋町・塩屋町・東裏町・江川町の町人地があり,材木町は船着場として盛えた。これらの町人地は地子が免除されて藩から保護された。また,米屋町・呉服町・魚屋町・紺屋町などの職業名を示す町はその活動に特権が与えられ,たとえば魚屋は魚屋町以外に店をもつことを禁じられた。これら唐津十七か町のほかに水主町・新堀は外町の東部に位置する町並みを形成していたが,本来は唐津村のうちに含まれる郷村支配地であった。したがってはじめは郷村と同様に地子が課せられたが,船着場の周辺であったこともあって次第に商家も増大し,のちには地子も免除され,町並みの取扱いを受けるようになった。城下にはこれらの町人地のほか下級武士の居住地もでき,内町地区には弓町(弓野町)・鷹匠町,外町地区には十人町・同心町・船宮町,西部には山下町・旗【のぼり】町・桜馬町・坊主町などがあった。町並みに扱われた水主町も近世初頭には船宮町にある藩の水軍基地に従事する御水主の居住する武家地とされていた。また,城下町の東西両端には陣屋式御堂と塀をもつ寺院町の東寺町・西寺町が城下防衛の目的で設けられ,寺院の大半がこの両町に集められ,寺社奉行の支配下にあった。寛永年間の公儀隠密の探索書に「町方の規模は,町の外かは(側)広さ北南弐町六間,南東四町,西南ニ土手高さ四間程,堀之広さ十三間……町のかまへの外東の方ニ五町長く町二筋あり,家数六七百御座候ハんと見へ申候」とあり,近世前期の内町と外町の規模を伝えている。元禄5年の戸数794・人数3,972,うち102戸が割家,146戸が借家で,3分の1ほどが長屋住いおよび借家住いであった(旧記調/唐津市史)。享保年間頃の人数3,260,うち男1,825・女1,435(佐志庄屋史料/唐津市史)。延享年間の人数3,208,うち男1,808・女1,400(秀島家史料/唐津市史)。寛政元年の家数888(寺社山伏とも),人数2,788,うち男1,538・女1,269(巡見手鑑/唐津市史)。「松浦拾風土記」による文化年間の各町の規模・古来本軒数・当時人数は,本町南北1町25間・40軒・205人,呉服町南北1町25間・34軒・158人,八百屋町南北1町20間・44軒・139人,中町南北1町25間・44軒・143人,木綿町南北1町25間・38軒・141人,材木町東西3町25間・84軒・375人,京町東西2町・50軒・114人,刀町東西1町37間・41軒・164人,米屋町南北1町23間・36軒・88人,大石町東西2町36間・110軒・377人,紺屋町東西44間・23軒・130人,魚屋町東西1町18間・58軒・240人,平野町東西1町26間・41軒・131人,新町南北1町26間・37軒・176人,江川町東西3町35間・68軒・263人,塩屋町東西44間・23軒・71人,東裏町東西30間・17軒・54人で,総計は東西2町10間・787軒半・2,969人。町人の家1軒の規模は地口2~5間,奥行8~10間ほどの,奥行きの深い家であった。天保9年の家数810,人数3,039,うち男1,561・女1,478(御巡見様御付副記録)。明治3年の戸数1,028軒,人数3,249(佐志庄屋文書)。同年の家中人数5,235(士族998・卒族4,237)。これらから町人数は3,000人前後であったことが分かり,ほかに家中の武家数約5,000人とあわせて8,000人ぐらいの人々が居住していた(唐津市史)。町奉行支配下に置かれた町の支配は,近世前期には築城時の十二か町が輪番で惣行事を選んで,惣町の代表となり,各町には年寄とそれを補佐する組頭が置かれた。安永5年には町人側の主張により3名の大町年寄が町を代表するようになり,惣行事制にとってかわった。大町年寄は,天明年間には石崎・森・岡本の各氏,寛政年間には石崎・小牧・草場の各氏,江戸末期には草場・山内・江川・小島の各氏の名が見え,藩領最後の大町年寄は草場三右衛門・小島新兵衛・山内小兵衛であった,大町年寄は3名が輪番で年寄の監督,町からの願書・届書の藩への取次ぎ,3組の火消し組の責任などにあたり,呉服町の安楽寺が主な会所となった。町人には地子・町役が免除され,町の経費は持家の数によって課せられる軒役を徴収して賄われた。藩領内の商品の多くが御用商人を中心とした城下町商人によって独占的に売買されていたことはいうまでもない。たとえば,水産物は御用魚屋や魚屋町の魚商人および肴札(免札)を持った魚屋に独占的に取り扱わせており,とくに魚屋町の魚商人は免札なしに無運上で営業を許した。御用商人が取扱った主な産物は,米・木蝋・和紙・煎海鼠・干鮑・干鰯などで,これらは藩の専売品でもあった。文化年間の御用商人・御用職人を「松浦拾風土記」から拾ってみると,白田御用掛り1人(谷崎庄左衛門),勝手御用達7人(小牧・勝木・古屋・菊屋・米屋・木屋・細物屋),御用八百屋1人(吉郎次),御用米問屋3人,御用肴屋3人(魚屋町清兵衛・同藤右衛門・呉服町市兵衛),御用糀屋3人(水島市兵衛・水主町嘉右衛門),御用材木屋1人(材木町伊兵衛),御用豆腐屋1人(呉服町甚兵衛),御用鍛冶1人(木綿町安右衛門),日雇頭1人(木綿町清兵衛),御用船問屋12人,大工棟梁2人(米屋町与左衛門・新町定八),木挽棟梁2人(本町茂兵太・材木町定四郎),砂官1人,畳師1人,桶屋兼屋根師1人,瓦葺1人,鍛冶棟梁1人などがいた。これらの有力商人は年寄・組頭に就き,また多角的な商業経営を行うのが常で,刀町の年寄をしていた御用鬢付屋篠崎与市は両替屋も営み,米や石炭も取り扱っていた。これらの商人たちは商品を有利に取り扱うために株仲間を結成していた。明治3年の株仲間には酒屋・糀ならびに醤油屋・肴屋・菓子屋・仕立屋・豆腐屋・紺屋・八百屋・材木屋・腰物屋・呉服屋・油屋・綿屋・鬢付屋・酢屋の職種があった(唐津市史)。町人の実力は大きく,延享2年土井利里が唐津入部の際に兵庫屋・網屋など町人代表の処遇を村方の大庄屋よりも優遇しようとして紛争を起こしたのもその実力の強さのあらわれであり,近世中期以降は藩財政は町人らの御用金・献金に大きく依存していた。しかし,近世後期にいたって農村の商品生産が展開し,また極度に悪化した藩財政が地元の商人よりも大坂・日田の商人の資金に依存するようになると,城下町商人も衰微し,豪商といわれた日野屋常安九右衛門や中尾甚六らも衰えをみせるようになる。享和2年には裏通りの東裏町などでは空家が多くなり,町ごと表通りへの地面替えを願い出ている(諸事控/唐津市史)。このような状況のなかで,文政2年には刀町の「山鉾」「赤獅子」の曳山が製作され,文政7年には中町の曳山「青獅子」も作られて,唐津くんちが盛んになるが,そのはなやかさは表面的で,町の不景気は依然として続いた。天保9年幕府巡見使は大石町・魚屋町・本町・刀町など当時の中心街を通ったが,天保の飢饉のせいもあって「扨々衰候体ニ見受申候,誠ニ御城下の様も難渋と相見候」(巡見手鑑/唐津市史)と書き留めるありさまであった。この中にあって,幕末には石炭業のみが当地を潤した。川船で運ばれる石炭は城下に隣接する松浦川河口の満島から領外へ移出され,唐津城下の石炭問屋は繁栄した。元治元年から明治元年までの領内の平均出炭量は2,946万斤にのぼり,これによる藩の益金4,668両は収入の24%にあたった。石炭業は明治期に入っても当地方の主産業で昭和20年代まで唐津町は石炭基地としての役割を果たした。松浦川はこれらの領内物資の基幹交通路で,河口の材木町の北に船着場が設けられ,船宮奉行所の管理下にあった。文化年間の市中総船数は124艘(松浦拾風土記)。また,松浦川には河口から川原橋(鬼塚)までは橋が架けられていなかったため,新堀と満島の間の渡し船は重要な役割を果たした。渡し船は明六つ(朝6時)から暮六つ(夕方6時)まで運行され,定員は5名。渡し船の経費は材木町の負担とされ,船頭は惣町から出した。伝馬については,「松浦拾風土記」によれば,古来からの駅馬札持は19匹であったが,文化年間には新札一匹を加え20匹となっており,日雇頭木綿町益田屋清兵衛がとりしきっていた。文化年間の唐津からの人馬銭は,浜崎まで(1里13町)本馬45文・半馬34文・人足24文,徳須恵まで(2里28町)本馬66文・半馬44文・人足42文,呼子まで(3里18町)本馬100文・半馬64文・人足42文であった(松浦拾風土記)。しかし,この藩の御定賃金では採算がとれず,御定賃銭の倍額程度を増銭として惣町が補助し,伝馬問屋の益田屋に渡していた。唐津城内三の丸にある唐津神社は,代々藩主の祈願所であったが,9月29日の秋祭は「唐津くんち」と呼ばれ,惣町あげての祭りであった。御神幸に従うヤマ(山車)は曳山とも呼ばれ,近世後期から明治初期にかけて15台奉納された。ヤマの名称・奉納町名・製作年代は,赤獅子(刀町,文政2年),青獅子(中町,文政7年),亀に浦島(材木町,天保12年),義経の兜(呉服町,天保15年),鯛(魚屋町,弘化2年),鳳凰丸(大石町,弘化3年),飛竜(新町,弘化3年),金獅子(本町,弘化4年),黒獅子(紺屋町,安政5年),信玄の兜(木綿町,元治元年),謙信の兜(平野町,明治2年),酒呑童子と頼光の兜(米屋町,明治2年),珠取獅子(京町,明治8年),七宝丸(江川町,明治9年),鯱(水主町,明治9年)。明治4年廃藩となり,最後の藩主小笠原長国が唐津を去り,唐津城は廃城となった。その前年の明治3年には町奉行所は市井所と改まり,大年寄は陌正【ひやくせい】,年寄は陌長【ひやくちよう】と改称され,同4年には城下町は平野町組・呉服町組・京町組・大石町組の4組に編成された。明治6年には郭内外村長,内外町村長の2名を置き,同8年には戸長1人となったが,同11年には内町・外町・郭内・郭外の4区画に分けて各戸長を置いた。「明治7年取調帳」では桜馬場の枝町として二ノ門小路・大名小路・櫨畑町・大手小路・埋門小路・西ノ門小路・西寺町・旗町・大手横小路・西ノ門横小路・表坊主町・江川町・明神小路・明神横小路・元旗町・鷹匠町・松原小路・裏坊主町・山下町・弓町の20町,平野町の枝町として刀町・船宮・新町・紺屋町・魚屋町・京町・材木町・新堀・呉服町・本町・塩屋町・同心町・米屋町・中町・大石町・十人町・八百屋町・木綿町・水主町・東寺町・東裏町・京町裏の22町を記す。前者はおもに旧城内および武家地,後者はおもに城下の町人地である。「明治11年戸口帳」によれば,唐津町の総戸数1,816・総人口7,789で,各町の戸数・人口は水主町91戸・338人,新堀19戸・114人,大石町102戸・427人,東裏町20戸・80人,材木町109戸・416人,魚屋町59戸・237人,木綿町44戸・207人,京町55戸・279人,京町裏16戸・68人,本町75戸・255人,町田口2戸・4人,中町58戸・235人,呉服町55戸・224人,紺屋町35戸・157人,米屋町35戸・165人,刀町43戸・191人,八百屋町45戸・148人,平野町43戸・161人,新町52戸・196人,弓町17戸・87人,名古屋口10戸・46人,鷹匠町6戸・35人,大名小路32戸・154人,二ノ門内43戸・182人,西門小路19戸・106人,埋門小路13戸・54人,明神横小路8戸・37人,大手小路20戸・69人,明神小路24戸・110人,松屋小路29戸・130人,大手横小路10戸・62人,西門横小路25戸・112人,表坊主町57戸・287人,櫨畑町12戸・58人,西寺町17戸・50人,桜馬場町64戸・295人,山下壱町目24戸・110人,山下弐町目25戸・108人,山下三町目17戸・77人,山下四町目23戸・115人,山下五町目15戸・68人,裏坊主町62戸・288人,元旗町および旗町47戸・216人,江川町87戸・358人,旗町弐町目32戸・157人,船宮ノ内38戸・196人,十人町ノ内23戸・100人,唐津村ノ内29戸・140人。なお,同史料では東寺町・同心町は唐津村のうちに含まれている。明治4年伊万里県出張所を大手口に設置,同6年徴兵令が公布されたが,当町では西寺町の近松寺で徴兵検査が行われた。明治3年高橋是清が英語を教える耐恒寮が大名小路に開設されたが,数年間で閉鎖された。また同じ頃藩校志道館の名残をとどめる志道学舎や橘葉医学館もあったが,耐恒寮と同じ運命をたどった。志道学舎のあとに志道義舎という小学校が開設されたが,これも明治7年頃には閉校となる。これに代わって志道小学校が開校,明治9年には上等下等の両科を併置し,男女の2部に分け,男子部を舞鶴小学校,女子部を松原小学校と称した。明治14年両校を合併し,唐津小学校と改称して大名小路に設置。このほか十人町に大石小学校があった。明治7年橘葉医学館跡に余課序と呼ばれる小中学校ができ,やがて共立学校と改称,明治9年に唐津準中学校となり,同11年には佐賀・鹿島とともに長崎県立唐津中学校,同16年佐賀県立となったが,明治20年学制改革により1県1中学校となったため,廃校,唐津高等小学校へと格下げになった。唐津高等小学校は唐津尋常小学校から分離する形をとり,はじめは二の丸旧藩御米蔵跡に置かれ,明治34年には松原横小路(現市庁舎跡)に移転した。「東松浦郡村誌」によれば,戸数1,844(士族720・平民1,124),社5(郷社1・村社1・無格社3),寺17,人数7,456(士族2,963・平民4,493),船174艘(うち200石以上1,他は50石未満),人力車37,荷車22,大八車5,大七車4,小車1,唐津港は2等港で年間出港船数1,348艘,入港船数1,518艘,輸出物貨は石炭1億539万7,179斤・半紙1,500丸・白保紙1,620丸,輸入物貨は塩5万2,730苞・氷砂糖10丸・白砂糖225丸・黒砂糖603丁・酒409丁・杉板600坪,白炭750俵・石炭油75箱・種油3丁・石灰2,000苞,職業は商業712戸・工業214戸・農業132戸・行商95戸とある。明治22年市制町村制施行により唐津町が成立。唐津城下の中町・紺屋町・材木町・新町・西寺町・桜馬場・坊主町・山下町・十人町・船宮町・水主町・江川町・本町・刀町・大石町・平野町・米屋町・木綿町・八百屋町・呉服町・京町・魚屋町・新堀・旗町・鷹匠町・弓町は唐津町の大字唐津となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7444994 |





