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杵島郡


江戸期は佐賀藩領で,寛永16年支藩の蓮池【はすのいけ】藩が成立すると当郡にも所領が置かれ,佐賀本藩領と蓮池藩領が混在した。村数や村高については,「慶長国絵図」では田方5,262町余・畑方1,801町余・高7万6,570石余(うち寺社領510石余)・物成4万8,292石余,ほかに小物成723石。「寛文朱印留」では114か村・高6万7,436石余。「元禄国絵図」でも高6万7,436石余。「宝暦郷村帳」では横辺田郷・橋寄下東郷・橋寄下西郷・白石六角郷・白石秀郷・須古郷・白石中郷・白石南郷・三法潟郷・川古【かわご】郷・武雄郷(柄崎【つかざき】郷)の11郷に分かれ,村数154か村・小村数137か村・寺数175(天台宗4・曹洞宗60・浄土宗5・一向宗34・真言宗45・臨済宗32・法華宗5)。「天保郷帳」では114か村・高8万5,436石余。「旧高旧領」では,58か村・6万7,773石余,うち佐賀本藩領50か村・6万3,775石余,蓮池藩領8か村・3,998石余となっている。人口は,貞享4年の郷村帳では4万6,612人(男2万8,343人・女1万8,269人)。天明6年の記録では男1万9,345人・女1万5,319人の3万4,664人(県史中)。柄崎(武雄)の温泉は古くから有名で,オランダ商館の医師フィリップ・シーボルトも文政9年正月,「江戸参府紀行」に,「柄崎の熱泉は武雄の湯としても名があり,使節およびわれらは,肥前侯の浴室にはいることを許された。柄崎は,うるわしい小市街で,多数の浴客が訪れている。その薬泉は嬉野【うれしの】と同様の疾病に応用されて,それよりも効多しといわれるからである」と記している。また,元禄4年1月オランダ東印度会社のエンゲルベルト・ケンペルは,「江戸参府紀行」で江北町佐留志付近のようすを興味深く記している。武雄市東川登【ひがしかわのぼり】町宇土手【うとで】の荒踊り,同市西川登町高瀬【こうぜ】の荒踊り,同市朝日町中野の荒踊りなどは,いずれも近世以来の民俗芸能で現在国重要無形民俗文化財に指定されている。また山内町大字鳥海【とりみ】字船原のかんこ踊も同様である。物産は米麦のほか煙草・藺蓆(須古地方)・石炭(大町地方)・菜種油・綿・椿油・麻・茶・生姜(山内町)・陶磁器(黒牟田焼・小田志焼・含珠焼・弓野人形)などで,有明海ではカキ・ウミタケ・アゲマキ・ムツゴロウなどが有名。明治4年佐賀県・蓮池県,同年伊万里【いまり】県,同5年佐賀県,同9年三潴【みずま】県・長崎県を経て,同16年佐賀県に所属。明治4・5年の大区小区制においては,第22大区から第25大区まで,および第33~34大区にまたがっていた。明治8年には第6大区にまとめられ,それをさらに6小区に分けた。明治9年6月26日には三潴県の第20大区となり,同年8月21日には長崎県の第37大区となり,明治11年まで続いた。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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