塩田町(近世)

江戸期の町名。藤津郡のうち。塩田駅・塩田宿・塩田村・塩田津ともいう。蓮池【はすのいけ】藩領。塩田郷に属す。村高は,「慶長国絵図」では塩田町として5,080石余とあり,馬場下村・大草野村は見えず塩田町の範囲は不明。「正保国絵図」「天明村々目録」ではともに108石余,「天保郷帳」では124石余。「旧高旧領」には見えない。肥前国郡村仮名附帳には塩田村とある。「宝暦郷村帳」では小村に新堀村・城福【じようふく】村・脇ノ城村がある。「天明村々目録」では小村に新堀村がある。塩田宿は本能寺山と塩田川の間を埋めて造成された長崎街道の宿駅で,塩田町は通例は宿場の北に続く脇ノ城村,南に続く城福(上福)村,本能寺山裏の農村である町分【まちぶん】村を含める。長崎街道の宿駅として,また「潮満ニハ船大小弐拾艘程掛候」(御国中所々道法帳)とあるように塩田川の河港として,陸海交通上の要所。さらに蓮池藩は西目【にしめ】(藤津・杵島郡)に所領が多かったため,西目統治の頭人役所を置き,当地方の政治・経済の中心地となった。塩田宿には文政13年に125軒があり(塩田町竈屋舗改帳),隣宿の嬉野【うれしの】宿へ2里1町,鳴瀬宿へ2里1町,多良【たら】通の浜宿へ2里1町,本馬賃銭は嬉野宿へ134文,鳴瀬宿へ83文,浜宿へ88文(安政年間高札控)。諸大名や長崎奉行・幕吏などの宿泊・通過も多く,元禄4年のケンペルの「江戸参府紀行」によれば,当地では非常に大きな壺の一種が焼かれ,水瓶として使われているが,東へ果てしなく続く平野を流れて島原湾に注ぐ川があるので,壺は船で他地方に移出され,木材を積んだたくさんの船がいた。また,実に煙の多い村で,なんとか一夜をしのがねばならなかったと記されている。しかし,塩田川による水害の多発と増水時の渡河の困難さから,享保期頃からは塩田川を離れた武雄まわりの彼杵【そのき】通が開かれ,また当地を通らず北方【きたがた】から白石【しろいし】・浜に通ずる脇街道も利用されるようになり,次第に当宿の重要性が減少していった。ただし,その後も河港としては繁栄し,天草陶土の陸揚げや大坂の米直送,藩船の蓮池への直行など重要な役割を果たした。このため,他域から多くの小屋掛け商人が進出し,藩の御用商人として指定されるための争奪も激しかった(蓮池藩請役所日記)。宝暦・明和年間の座数は,反物座1・荒物座2・砂糖座1・唐薬種座1(仰渡)。川岸の商家の高い石垣は,塩田石工が塩田石を用いて築いたもので,商業都市としての偉容を示す。化政期には藩に献金して武士待遇を受ける商人も数多くいた(塩田郷土誌)。火災も多く発生し,正徳元年に80軒,享保6年に67軒,宝暦3年に46軒,寛政元年に64軒を焼失(蓮池藩請役所日記)。町役人である別当は享保6年に次郎左衛門,正徳2年に六郎右衛門が勤めた。宿場の西南部に接続する城福村には西目統治のために設置された頭人役所・上使屋・藩校塩田学寮(安永5年開設)・武家屋敷が並び,塩田川沿いの御倉の浜という所には藩船の発着所や造船所・倉庫があり,宿場北東部に接続する脇ノ城村には材木の荷揚場があった。新堀村は塩田川の船着場の改修によって造成された低地にできた集落。藩士の子弟の多くは塩田学寮観瀾亭に学び,町民は立伝寺の寺子屋,矢野某の私塾に学んだ。真言宗御室派護国教王山常在寺は後島羽院の勅願により建立された霊場で(肥前古跡縁起),後鳥羽天皇の病気平癒の加持をして大黒天像を下賜されたという。塩田石工の代表作である仁王像(文政8年作,高さ2.4m)があり,また裏山に平敦盛の供養塔があり,塩田地域に広く残る平家落人伝説との関係をしのばせる。同寺境内に丹生神社の分社二の宮がある。浄土宗無量山寿経院本応寺は元禄年間には塩田・嬉野郷に11か寺の末寺があった(寺伝)。文化10年藩の軍船建造のため大楠1本・米100俵を献納し,寺領10石を与えられる(蓮池藩請役所日記)。ほかに浄土宗上品山生蓮寺,浄土真宗本願寺派高徳山立伝寺・同賤四郎庵がある。明治4年蓮池県・伊万里【いまり】県,同5年佐賀県,同9年三潴【みずま】県・長崎県を経て,同16年佐賀県に所属。「明治7年取調帳」では塩田津とあり,馬場下村の小村として見える。「明治11年戸口帳」によれば,馬場下村のうちに「塩田津」と見え,戸数185・人口761。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7445423 |