藤津郡

「肥前国風土記」では,4郷・9里・1駅・1烽とするが,能美【のみ】郷および託羅【たら】郷のみ記載している。「和名抄」では,能美(乃未)・塩田(之保多)の2郷をあげている。能美郷は郡家の東にある能古見【のこみ】(現在の鹿島市)を遺称地とする。郡家は,塩田駅(延喜式・和名抄)付近と考えられる。「肥前国風土記」にも塩田川がみえ,川上の淵(現在の嬉野町下宿湯野田),湯泉(嬉野温泉)付近から,郡の北部を東に流れ,海に注いでいる。また塩田川は託羅の峰から発する,ともあり,郡の南で海に臨む託羅郷は太良町付近で,多良を遺称地とする。塩田郷は塩田川流域で塩田町付近に比定される。他の1郷は藤津郷とも考えられ,現在の鹿島市納富分【のうどみぶん】藤津を中心とする一帯に比定できる。能美郷の郷名の由来は,「肥前国風土記」に土蜘蛛【つちぐも】が「叩頭【のみ】て」景行天皇に伏したことからとし,塩田は,塩田川が「潮高満【しおたかみつ】川」の転化したものとする。託羅郷については,海産物の豊かな「豊足【たらい】」の村からきたとする。「三代実録」によると,貞観8年7月15日条には,藤津郡大領葛津貞津なる人物が郡司としてみられ(三代実録),「国造本紀」によって葛津立【ふじつたち】国造の名もみえるので9世紀後半までには中央政権の管下に入ったことが証される。「肥前国風土記」にいう能美郷の土蜘蛛たちが次第に在地勢力として中央に服しながらも成長していったのであろう。塩田川流域には古くから集落も生まれたであろうが,塩田町馬場下にある丹生神社についても,貞観3年8月24日肥前国正六位上丹生神を従五位下に昇叙した(三代実録)とあるところから,貞観年間になるとこの地方も次第に中央から注目されるようになったと考えられる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7446575 |