松浦郡

「肥前国風土記」によれば,11郷・26里・5駅・8烽となっており,郷は値嘉【ちか】郷が郡の西南海中にあり,烽【とぶひ】3所と説明するだけである。里は賀周【かす】里が郡の西北,あとは褶振【ひれふる】峰・鏡【かがみ】渡・逢鹿【おうか】駅・登望【とも】駅・大家【おおや】嶋がとりあげられ,文中に大家郷がみられるにすぎない。「和名抄」には庇羅【ひら】・大沼【おおぬ】・値賀・生佐【いきさ】・久利【くり】の5郷がみえる。庇羅郷については「三代実録」「日本後紀」「延喜式」などにそれぞれ,庇羅郷・庇羅嶋・庇羅馬牧などとみえる。値賀郷は「三代実録」にもあり,諸本に値嘉嶋・遠値嘉嶋ともある。久利は鏡の渡りの場所が「栗川」を渡る所と「肥前国風土記」にもある。「和名抄」の5郷も比定はむずかしい。「日本後紀」延暦24年7月癸未条によれば,遣唐使船が7月4日に肥前国松浦郡庇良島から遠値賀島を指して船出したとあるので,平戸付近の島から五島列島を指して出発したのであろう。大沼郷は松浦郡大野村(東松浦郡相知町)に比定されてはいる。値嘉郷は五島列島一帯で,生佐郷は松浦郡伊岐佐村(東松浦郡相知町)付近に,久利郷は松浦郡久里村(唐津市久里)付近にそれぞれ比定される。このように考えると松浦郡は大陸との交通上の要地,平戸島・五島列島を除くと,松浦川流域で,現唐津市一帯の平野から南東に連なる谷間の地域が早くから開けていたと想像できる。賀周里(唐津市見借)には土蜘蛛【つちぐも】がいたと伝え,先住部族がいたと考えられる。逢鹿駅は現在の唐津市相賀を遺称地とし,登望駅は現在の東松浦郡呼子【よぶこ】町の大友【おおども】・小友を遺称地とする。烽は褶振峰が「烽処」にあげられ,値嘉郷の3所と合わせて4所しか判明しない。「肥前国風土記」にある,新羅出兵にまつわる神功皇后・大伴狭手彦【おおとものさでひこ】・弟日姫子【おとひめこ】(松浦佐用姫)の伝説は有名で,半島との関係は深い。また地勢上,多くの水産物の名があげられている。景行天皇・神功皇后にまつわる地名伝説もある。値嘉郷については詳しく,80以上の島々からなり,阿曇連百足【あずみのむらじももたり】がこの地方を巡察して土蜘蛛を平定したという。海産物のほかに,檳榔【あじまさ】・木蘭・枝子【くちなし】・木蓮子【いたび】・黒葛【つづら】・【なよたけ】・篠【しの】・木綿【ゆう】・荷【はちす】・
【ひゆ】などを産したという。また漁民たちは牛馬を多く飼育していた。また遣唐使船の停泊地に相子田停【あいこだのとまり】・川浦【かわら】の浦があり,それぞれ上五島町相河【あいこ】・福江島岐宿町川原港である。肥前国とは別の土着民がいて白水郎【あま】という総称で呼ばれている。海洋民族であろう。「万葉集」に山上憶良の羇旅の歌(同書7巻)をはじめ各巻に松浦地方および佐用姫などを詠んだ歌31首がある。「海東諸国記」にも「肥前州に上下松浦有り」として和寇の活躍を伝え,松浦党が「図書」を受けた貿易船のことも伝えている。「朝野群載」(巻20)では刀伊国賊徒が肥前国松浦郡に侵攻してきた寛仁3年4月の事件を伝えている。「吾妻鏡」では,寛元3年12月25日条に「松浦執行源授」「鶴田五郎源馴」など松浦党諸氏の名や「松浦庄西郷内佐里村」と荘園名がみえる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7446704 |