100辞書・辞典一括検索

JLogos

52

宮浦村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。基肄郡のうち。対馬藩田代領。基肄上郷に属す。村高は,「肥前国郷村畝高帳」によれば文禄検地高765石余,慶長検地高905石余(基山町史),「慶長国絵図」では755石余,「天保郷帳」では905石余,「旧高旧領」では「宮浦東村」と見え987石余。宝永2年の田代領郷村人高竈数書上帳によれば,宮浦西村と宮浦東村に分かれ,前者は竈数79(うち社家1・社僧1・名子6・隠居1),後者は竈数81(うち寺1・隠居2・名子2)。文政9年の肥前国基肄養父御領分地高定免御物成并竈数人高吟味帳でも同じく東西に分かれ,宮浦西村は竈数121(うち本家108・名子13),人数548で氏神に荒穂宮がある。宮浦東村は竈数151(うち本家123,名子28),人数697,浄土真宗因道寺がある。氏神荒穂神社は基山の南麓に鎮座し,肥前国の四大古社の1つ。社伝によれば,大化元年肥陽国造金連の後裔13世金村臣により基山【きざん】山頂に創建された。藩政期には基肄郡上郷の惣社,維新後は旧県社となった。祭神は瓊瓊杵尊を主神とし,五十猛命・加茂大神・春日大神・住吉大神・八幡大神・宝満大神を相神とする。年に12回の祭のうち斎祭はとくに重要な祭とされ,この期間,氏子は物忌する。神幸は古くは年に4度行われたが,維新後は5月の神幸祭のみとなった。まず,神座12人によって柴垣座が行われたのち,本宮から下宮(現大字園部字鎮西隈)までを往復する。なお,氏子による奉納芸として獅子舞・災払・笛・鉦浮流・はぐまなどがある。字秋光の高木天神は高木実松の霊を祀ると伝えられ,もと荒穂宮の歴代神主であった下家の文書によれば,実松は荒穂宮神主の弟で天徳年間に起こった神人・社僧の争いで死亡したためこの地に祀ったとされる。因通寺は真宗本願寺派に属し,本尊は阿弥陀如来。寺伝によれば,慶長年間,調善徳という人物が,筑後国久留米の真教寺住職善西師に5年師事したのち帰郷し,精舎を創建して号したという。明治4年厳原県・伊万里【いまり】県,同5年佐賀県,同9年三潴【みずま】県・長崎県を経て,同16年佐賀県に所属。「明治7年取調帳」では1村として見える。「郷村区別帳」では枝村に宮浦西分が見え,反別84町余。「明治11年戸口帳」によれば,当村は宮浦東村(205戸・1,005人),宮浦西村(117戸・615人)に分かれており,合計戸数322・人口1,620。「基山郡村誌」によれば税地は地租改正以前は田70町余・畑14町余・藪1町余,改正後田98町余・畑41町余・宅地10町余。貢租は地租米478石余・大豆30石余・大麦5石余・小麦2石余・秋山米3石余,地租改正による租金1,883円余,戸数は316(士族5・平民311)・神社1・寺1,人口は1,679(士族30・平民1,649),牛17,馬91,水車5。物産は,櫨実5万斤・楮50把・塵紙130締・原紙1,306束。職業は農業244戸(うち農間余業に紙製に携わる者17戸)・工業25戸・商業47戸。秋光小学校がある。明治22年,基山村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7446837