生属村(近世)

江戸期~明治22年の村名。松浦郡のうち。平戸藩領。「慶長9年惣目録」では生月島,「元禄郷帳」「天保郷帳」では生属村,「旧高旧領」では生属里村と見える。村高は,「慶長9年惣目録」1,611石余,「天保郷帳」636石余,「旧高旧領」1,693石余。「旧高旧領」の村高には一部村も含んでいると考えられ,幕末~明治初年に一部村を合併したのであろう。享保年間から嘉永年間にいたる約百数十年間は捕鯨の全盛期で,当町の捕鯨業の元祖である益富又左衛門の名をとり,益富捕鯨と称された。その総漁獲2万頭余,水揚高約330万両,税7,600両,藩主への献金1万5,000両と記されている。この時代には他所より移入した者が多く,人口は倍増したといわれている。捕鯨に関しては,多数の文献があり,九州大学の調査により,経済史・産業史上貴重な文献として高く評価されている。幕末頃の巨人力士生月鯨太左衛門は当地の出身で,身長7尺5寸・体重45貫であったという。明治4年平戸県を経て長崎県に所属。同11年北松浦郡に属す。「郡村誌」によれば,村の幅員は東西約30町・南北約1里25町,地勢は「平戸島ノ西北隅三里ニアル一島ニシテ,島ノ中央ニ番岳(本村ニ在リ)高ク孤立シ,其山脈南北ニ延長シ,南ハ平戸島中野村ト凡五百間ヲ阻テ海峡(海峡ハ山田村ニ属)ヲナシ,北ハ絶海ニ臨テ伏ス,海運便ニ薪乏シク炭全クナシ」,地味は「其色水田ハ黒墳,白田ハ赤シ,其質ハ鹵薄,稲粱ニ適セス麦豆ニ較適シ,桃実ニ宜シ,水利極テ不便,旦風災甚タシ,唯沿海魚獲ノ利多シトス」とあり,村内は一部免・里免に分かれ,税地は田56町余・畑87町余・宅地1町余・山林3町余の合計148町余,改正反別は田75町余・畑225町余・宅地30町余・山林53町余・原野92町余の合計478町余,地租は米522石余・金15円余,国税金は22円余,改正租金は1,473円余,戸数は本籍1,000・社2(村社1・無格社1)・寺1(臨済宗)の合計1,003,人口は男1,963・女2,077の合計4,040,牛480,船98(200石未満1・50石未満漁船55・50石未満荷船42)。また,学校は字上川に公立里小学校があり,生徒数は男のみ40,神社は字宮田に村社の住吉神社,字谷内に白山神社が鎮座し,寺院は字上川に臨済宗永光寺があり,民業は農業624戸・商業27戸・工業6戸・漁業344戸,物産は米596石・麦680石・大豆300石・小麦8石・蕎麦22石・鯨15頭・鮪3万斤・鯛4,000斤・鰤5,000斤・1万5,000斤・鯣1万5,000斤・鱶鰭150斤・鮑2,700斤・甘海苔(数量欠)・和布葉7,000斤・石花菜1,000斤・実綿800斤・菜種64石・牛児756頭があげられ,このうち牛児と甘海苔は名産品で,これらの物産は下関・福岡・長崎・伊万里・平戸などへ輸送されると記されている。明治22年生月村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7447294 |