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壱岐国


大化改新の以後,全国に国郡が設置され,西海道九か国が成立するが,このほかに対馬・壱岐・多褹【たね】の三島には島司が置かれた。壱岐は国とはならず,古代を通じて壱岐島と呼称されたが,島司は国司に准じ,壱岐島は他の国と同様に扱われた。「古事記」によれば,イザナギノミコトとイザナミノミコトにより大八島が生成されたとし,その1つに伊伎島が見える(古典文学大系)。「日本書紀」にも同様な大八洲国生成の伝承が記される(同前)。「日本書紀」応神9年4月条に,武内宿禰が監察のため筑紫に派遣されている留守に,弟甘美内宿禰のため讒言され,天皇のために殺されようとしたとき,壱伎直の祖真根子が武内宿禰と似ているので,剣をとって自ら死して武内宿禰に代ったという説話が見える。こののち,同書顕宗3年条にも壱伎県主の先祖押見宿禰が見える。壱岐県主の設置の時期は未詳であるが,大化前代において壱岐には国造は置かれず,県主であった。「国造本紀」には壱岐島造が見えるが,これは大化以後の新しい国造制によったものである。「日本書紀」皇極天皇元年10月条によれば,この年3月新羅が皇極天皇即位祝賀の使と舒明天皇崩御を弔う使を遣わし,使はその帰途壱岐島に停泊している。壱岐は対馬とともに,古くから日本と朝鮮の中継地としての役割を果たしていた。天智2年の白村江の戦いで日本が大敗し,朝鮮との関係が悪化すると,朝廷は翌天智3年防備のため対馬・壱岐・筑紫などに防人【さきもり】と烽【とぶひ】を設置した(日本書紀)。烽はのろし台であり,防は崎守・先守の意味で,施設をあらわすときは防の一字,その守備兵を指せば防人の二字となる。防人は筑前・肥前にも置かれたが,主力は壱岐・対馬であった。防人の出身地は,遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野の東国諸国であり,防人に選ばれた者は,弓・弓弦袋・矢・太刀などの武器をはじめ,集合地までの食料や水桶までも自分でそろえなければならなかった。「万葉集」には,東国から壱岐に派遣された防人の歌が収録されている。天平2年に諸国の防人が廃止された。しかし,壱岐・対馬の防人はそのまま存続し,天平9年9月に筑紫の兵士を壱岐・対馬の防人とした。天平勝宝7年2月東国防人が復活したが,天平宝字元年再び東国の防人は廃止され,西海道七か国の兵士がこれに代わった(続日本紀)。大宰府は,天平宝字3年3月東国防人の復活を求めたが許されず,天平神護2年4月重ねて東国防人の復活を請うたが,延暦14年ついに大宰府の防人が廃止された。承和2年大宰府は壱岐島に新羅の商人がたびたびあらわれることを理由に,壱岐に防人を置いて非常に備えたいので,壱岐島の徭人330人に兵仗を帯びさせ,14か所の要害の崎に配置したいと上申した(続日本後紀)。「壱岐名勝図誌」は,弘仁6年に壱岐に異賊が襲来したため壱岐に二か所の関と14か所の要害を置くとあり,「壱岐郷土史」は二関と14の要害が置かれた年を弘仁7年としている。二か所の関は見目関・箱崎関,14か所の要害の崎は風本・見目・瀬戸・朝崎・初山・筒城【つつき】・帆伝・久喜・本居・船越・綿浦・麦屋・黒崎・浦海である(壱岐名勝図誌)。防人が防衛にあたる対馬は,平地にとぼしく自給できなかったので,貞観18年には対馬の防人の年粮にあてるため,壱岐の水田100町を公田としているが,元慶3年にはこれを廃止し,他の大宰府管内の諸国から送ることになった(三代実録)。「日本書紀」顕宗天皇3年条によれば,大和朝廷が任那に派遣した使が壱岐・対馬を通過した際に,現地で神託があり,それを使が朝廷に取り次いだため,高皇産霊【たかみむすひのみこと】が壱岐・対馬から山城国・大和国に遷祠されたという(古典文学大系)。高皇産霊神は「古事記」によれば,天地のはじめの時,高天原に成りませる神として,天御中主神・高産巣日神・神産巣日神の三柱の1人として,国土生成の最初にあらわれる神であり,日本神話においては非常に重要な地位を占めている(同前)。「延喜式」神名帳によれば,壱岐島の式内社は壱岐郡12座・石田郡12座の24座であり,このうち7座が名神大社であった。対馬島の式内社も29座あり,他の九州諸国と比べても壱岐・対馬は圧倒的に式内社が多い。それは,壱岐・対馬には,9世紀以前から記紀の建国神話に登場する神々が祀られていたとみられることと関係する。国府は芦辺町の国分に所在したとする説が有力であるが,芦辺町の湯岳興触に比定する説も根強い。なお,国分から興触に壱岐の国府が移ったという説もある。天平13年聖武天皇の発願により各国に国分寺が設置されたが,天平16年7月壱岐島にも島分寺(国分寺)がおかれることが決まった(続日本紀)。壱岐島では壱岐直の氏寺が壱岐島分寺にあてられた。「延喜式」主税によれば,島分寺の供養料として1万2,971束1把1分5毛,仏聖供料1,332束8分,講師常供料4,726束があてられている。芦辺町国分に国分寺址が残る。壱岐島は西海道に属し,優通・伊周の2駅が置かれた(延喜式)。島の南端の優通駅から国府を通り,伊周駅からさらに船で対馬府中に至るルートが古代における二島路の本道であった。「壱岐国風土記」逸文によれば,鯨伏【いさふし】郷は昔鮐鰐【わに】(鱶【ふか】の一種)が鯨【くじら】を追いかけたため,鯨が走り来て隠れ伏したことに由来するという(古典文学大系)。鯨【いさ】は今日の鯨とみられ,古代からこの付近で鯨漁があったことを伝えるものであろう。「和名抄」によれば,壱岐島の田積は620町,正税1万5,000束・公廨稲5万束・本穎9万束・雑穎2万5,000束で,壱岐郡は8郷,石田郡は5郷からなる。「三代実録」貞観18年3月9日条に壱岐島の水田を616町と記し,「和名抄」とほぼ一致する。「延喜式」民部では壱岐島は遠国で下国であるが辺要の地とされ,年別の雑物などは大宰府として一轄して集計されているが,「延喜式」主計には大宰府より「海路行程三日」と記され,調として大豆23斛・小豆11斛・小麦20斛2斗が納入され,このほか海石榴油・薄鰒が送られた。また,「延喜式」主税によれば,壱岐島は正税1万5,000束,公廨5万束,修理池溝料5,000束,救急料2万束であった。「日本紀略」寛平7年9月27日条に,大宰府が,壱岐島の官舎等が討賊のためにことごとく焼亡させられたことを言上したとある。討賊は新羅賊で,この記事は寛平6年の誤りとみられる。寛仁3年4月には刀伊の入寇により壱岐守藤原理忠は殺害され,殺害された島民148人,追い取られた女239人で,遺留した人は35人にすぎなかった(小右記)。郷ノ浦町田中触出土の延久3年銘石造弥勒如来座像に「日本国壱岐島物部郷鉢形嶺」と刻まれている(勝本町史上)。銘文の内容は,壱岐国司佐伯良孝の治下に,正六位大掾若江糸用が,天台僧教因を願主として,肥後の仏師慶因に弥勒如来を造らせ,これに法華経の写経を納め,鉢形嶺の経塚に埋納した様相を伝えている。平安後期には,元慶7年石田郡の継埼牧が観世音寺領,天禄元年壱岐郡の中浜荘が安楽寺領となったほか,中世に見える石田郡の筒城荘・物部荘・志原保・石田保なども平安末期までに成立していたとみられる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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