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諫早市(近代)


 昭和15年~現在の自治体名。諫早町・小栗村・小野村・真津山村・本野村・長田村・有喜【うき】村の1町6か村が合併して成立。町村制時の大字および行政区を継承。市役所は諫早町役場を引き継ぎ使用していたが,諫早水害のあと昭和35年諫早小学校跡地に移転。世帯数・人口は昭和25年1万2,547・6万5,434,同45年1万6,056・6万5,261,同55年2万3,231・8万3,723。県内で最大の干拓水田地帯の諫早平野をもつ田園都市で,市勢の発展は第2次大戦中および戦後の20年間は比較的緩やかであった。その間,昭和20年8月長崎市の原爆被災者約4,000人を市内諸施設に収容,市民団体の協力を得て救護に当たった。同21年市民生活用の塩の欠乏に対する緊急の対応策として,小浜町に温泉熱利用の市営製塩場を設けることもあった。同32年1昼夜に約1,000mmという局地的集中豪雨に見舞われ,本明川など市内諸河川が氾濫して,いわゆる諫早水害と呼ばれる大規模災害を被った。山間部では山津波がおき,眼鏡橋周辺をはじめとする市内中心部は各河川からあふれた水が3mに及ぶ水深を記録した。死者行方不明者539人・負傷者1,912人・罹災者2万人以上,市役所・諫早小学校をはじめとする建物の崩壊・流失などの物的損害は90億円に上った。自衛隊や各種団体により復旧作業が行われ,このあとの再建期に入ってまもなく,日本経済の高度成長の影響もあり,都市化・工業化の機運が高まった。同37年起工の貝津工業団地は,金属工業の初めての市内進出であったと同時に,その協同組合経営の好成績も機運の推進に大きな刺激となった。また第24回国民体育大会秋季大会主会場が建設され,これを機として同44年に完成した諫早バイパスをはじめ市内外道路の整備が著しく進んだ。同45年には西部に西諫早ニュータウンが起工。地域振興整備公団による開発の諫早中核工業団地(同52年着工,同55年分譲開始)は,自然と開発の調和や無公害を標榜し,総面積は230ha,そのうち工場用地を50%以下として緑地などとのバランスを図っている。同57年開通した長崎自動車道も近くの貝津町に諫早インターチェンジを設けた。15歳以上の産業別就業者数は,昭和35年には,第1次産業1万2,829(47.0%)・第2次産業3,787(13.8%)・第3次産業1万655(39.0%)で合計2万7,271,同55年には,第1次産業5,432(14.9%)・第2次産業8,053(22.1%)・第3次産業2万2,964(63.0%)で合計3万6,449。教育の面では高等学校は公立3校・私立2校。また,ウエスレヤン短期大学,県立農業経営大学校,国立長崎総合高等職業訓練校があり,青少年のための施設として国立少年自然の家がある。土地区画整理事業などに伴う町名町界変更は昭和19年から始められ,同26年永昌東町が起立。同40年には諫早水害復興土地区画整理により本町・高城町・天満町・城見町・泉町・八天町が起立,続く同43年金谷町,同45年本明町・目代町・福田町・湯野尾町・富川町・本野町・上大渡野町・下大渡野町・土師野尾町・小ケ倉町・小川町・天神町・早見町・中通町・鶴田町,同46年日の出町・小豆崎町・西里町・中田町・御手水町・大場町・長田町・正久寺町・高天町・白浜町・猿崎町・白原町・白木峰町・平山町・栗面町・鷲崎町・川床町・長野町・川内町・宗方町・小野町・黒崎町・赤崎町・小野島町が起立。同47年には西諫早ニュータウン内の中尾・山川・白岩・堂崎・馬渡の5町のほか有喜町・松里町,同48年津水町・小船越町・貝津町・若葉町・久山町,同49年栄町・幸町・東小路町,同55年には諫早中核工業団地の地域が津久葉町になったほか,宇都町・永昌町・栄田町が起立して現在に至る。この間昭和42年に高来町との間で境界変更が行われた。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7447327