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大村(中世)


 鎌倉期から見える地名。彼杵郡彼杵荘のうち。元応2年□月27日の東福寺領肥前彼杵荘文書目録案に「当庄大村一分領主」として「十郎入道」「孫九郎盛純」(大村盛純)などと見える(東福寺文書/大日古20‐3)。嘉暦4年7月3日の肥前国彼杵荘文書目録には「大村一分領主」として「今富秋次九郎次郎入道」の名が見え(正慶乱離志裏文書/県史古代中世編),大村がこれら大村氏をはじめとする領主たちによって分領されていたことがうかがえる。「博多日記」正慶2年3月17日条・24日条によると,江串三郎入道等が後醍醐天皇の一の宮である尊良親王を奉じて挙兵し,宮方につくように本庄・今富・大村に触れまわったが,一味のうち刑部房は大村山で大村永岡三郎入道に討たれている(正慶乱離志/大宰府・太宰府天満宮史料10)。しかし当時,大村氏の中心的拠点は,戦国初期にいたるまでなお肥前藤津郡にあったらしい(中世九州社会史の研究)。観応2年の正月28日・2月28日一色直氏軍勢催促状および3月日深江種重申状写によれば,一色直氏が大村に入っており(綾部文書・松浦文書・深江文書/南北朝遺2991・3018・3052),延文6年9月日竜造寺家平軍忠状では,少弐頼国が大村にあったことが見える(竜造寺文書/佐賀県史料集成3)。この間大村氏は南朝方であったがその後室町期,「海東諸国紀」によると,丁亥年(応仁元年)に舎利分身を賀す使を遣わした源(大村)重俊は「肥前州大村太守」と称しているが,これらはむしろ藤津郡内の大村氏であった可能性が強い。やがて戦国大名に成長したが,軍事面においては有馬氏と竜造寺氏に圧迫され続けた。天正6年と思われる3月4日島原純豊書状によれば,大村において戦いが行われ,この時には竜造寺隆信が敗北しているが(横岳家文書/同前6),同8年,大村氏は竜造寺氏に屈伏し,同12年,大村純忠は領内波佐見村の地に幽閉された。しかし同年3月,竜造寺隆信は島津・有馬連合軍との戦いで敗死した。「上井覚兼日記」同年5月2日条によれば,この日までに純忠は大村へ戻っているが,同13年9月15日条からは,島津氏の強大な勢力の下,大村は有馬晴信の支配に委ねられている様子がうかがえる(大日本古記録)。しかし同15年,豊臣秀吉の九州平定に島津氏は屈伏し,大村氏を含む九州の諸大名は旧領を安堵された。なお,福田殿にあてた年未詳8月13日千々石直員書状写には「其等事,近日於大村表可罷出候間,万端以御面可申承候」と見え,福田兼次にあてた欠年8月28日大村純忠書状写には「郡・大村其外領内之人共,入魂を以,申拵事候」とある(福田文書/中世九州社会史の研究)。また,明徳2年9月28日の西大寺末寺帳には「〈皮杵(ソノキ)大村〉宝生寺」が見える(極楽寺文書/広島県史古代中世資料編5)。一方ヨーロッパ史料では,1563年(永禄6年)大村純忠が横瀬浦で受洗したのち,大村に反乱が起きたことについて,フロイスは,暴徒が純忠の邸や町家に火を放ったので,純忠は少数の手勢とともに逃れて「町に近い城」に入り,約40日間国を失うが,やがて一部の地方をのぞいて領土を回復するに至ったとし(1563年11月14日フロイス書簡/通信上),イエズス会巡察使ヴァリニャーノは「彼は改宗後二カ月を経ないで無一物となり領土から追放された」「幾カ月か後に姿を現わし,一城を奪回し,徐々に領地を回復して行ったが,三年後でなければ全領土の主君になることができなかった」と記し(ヴァリニャーノ日本巡察記),翌1564年アルメイダ修道士は,反徒は大した困難なく純忠の領地を奪って「彼をして現に籠居せる城」に逃れしめていると伝え(1564年10月14日アルメイダ書簡/通信上),同年のあるポルトガル人書簡も同様の報告をしている(通信上)。大村家が1598年(慶長3年)まで居城とした三城はこの年に築かれたので,「籠居せる城」というのはこの城であろう。三城は本丸を中心に北に二の郭,南西に三の郭と3つの部分から構成され,本丸の西側に大手口,北側に搦手があった。本丸の南東から北東部にかけてめぐらされた空堀,大手門近くの水の手,本丸と二の郭の間の土塁は現在も残っている(城郭大系)。ところで,大村に教会ができたのは1568年(永禄11年)のことで,まずトルレス神父が2年滞在した。「ドン・ベルトラメウ(大村純忠)はその国の首都なるこの町に居住し,その城および邸宅は会堂に近きがゆえにしばしば参詣」した(1569年10月3日バズ書簡/通信下)と報じられている。その会堂は,その後大村に滞在したルセナ神父が宝性寺(Fuxonji)と呼んでいる場所であった(大村キリシタン史料)。大村領におけるキリスト教の布教を見ると,1570年(元亀元年)来日したイエズス会布教長カブラル神父が,大村に赴いて純忠の家族に授洗した(1570年10月21日フィゲイレド書簡/通信下)のち,1574年(天正2年)になると,下地方の上長コエリヨ神父が,大村純忠が西郷純尭に戦勝したのち,感謝のしるしとして家臣に改宗を命じるよう説得したので,その後大村で大改宗が行われ,4万を超える領民が受洗し,社寺が焼き払われ,十字架・教会が造られ,異教徒は他領へ去った(フロイス日本史11・大村キリシタン史料)。1578年(天正6年)には全領の6万人が信徒となり,大村教会にはその3分の2が属していたが,教義については無知だった(大村キリシタン史料)。イエズス会は終始大村家を援助し,特に戦時には武器弾薬を供与し,領民もイエズス会以外から救恤を受けることがなかったという(1580年10月20日メシア書簡/長崎市史西洋部)。1580年になると,大村に日本語教育を目的とする学校の設置が計画され,宣教師も数名常駐し,1585年に領内で教会は87か所を数えた(1580年10月20日メシア書簡/通信下,フロイス日本史10)。その間竜造寺隆信は純忠が大村の城を出て波佐見に赴くことを強要し,人質として預かっていた大村喜前を大村城に入れようとしたが,隆信の戦死によって純忠は大村城へ戻り,領土も回復し,喜前も戻された(1584年8月31日フロイス書簡/イエズス会日本年報上,大村キリシタン史料)。しかし豊臣秀吉のバテレン追放令によって,豊臣家の役人はまず大村領に入り,郡の城と教会,ついで大村の2教会,最後に5~6か所の教会と十字架数基を破壊して,他領にない混乱が起きた。大村領内には12人ほどのイエズス会士が潜伏したが(フロイス日本史11,1587年の日本年報/イエズス会日本年報下),その中で,大村に潜んだルセナ神父らは,その後大村城から半里の純忠の旧住居,坂口へ移り,純忠未亡人の屋敷近くに1年近く住んでひそかに布教した。その後ルセナは,未亡人の屋敷へ移り,未亡人がイエズス会の持家(宝性寺)に住んだ。しかし,日本語学校となっていた坂口の館が1592年(文禄元年)に放火で焼失すると,学校はいったん宝性寺に戻るが,まもなく新築の建物が坂口に建てられ,そこへ移った(大村キリシタン史料・フロイス日本史12)。また,それ以前の1589~91年(天正17~19年)の間に天草からイエズス会修練院も大村に移転していた(フロイス日本史11)。このように秀吉のバテレン追放令以後も,イエズス会の巧みな処理と,貿易にイエズス会士の協力が不可欠な実情によって,大村領においては宗教的弾圧までにいたらず,大村の教会も漸次復興した。文禄・慶長の役ののち大村に新しい城が造築された時,教会も民家13~14軒を移動させて新築されて,14~15人の宣教師が住んだ。その建物は日本語教育を行う修道院と教会で,聖バルトロメオの名称が付けられ,郡・彼杵・鈴田の司祭館がこれに付属して,宣教師は1606年(慶長11年)大村喜前に追放されるまで駐在した。また,大村城内には信心団体と相互扶助の会もできていた(大村キリシタン史料・フロイス日本史12)。しかし,文禄・慶長の役当時,大村地方は役人・高官の出入りや交通量の増大,公役等の負担増加で次第に貧困の度を増していった(フロイス日本史12)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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