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琴村(近世)


 江戸期~明治41年の村名。対馬国上県【かみあがた】郡のうち。対馬藩領。伊奈郷に属す。寛永15年「毎日記」に「きん」と見え,また「もぎ」の名も記される。村高は,「寛文検地帳」29石余(県立対馬歴史民俗資料館蔵)。「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」にも村名が見えるが,村高は記載されていない。「津島紀略」には「琴〈読如字〉,在葦見之北廿一町,去府十五里十二町,至舟志二里六町,至五根緒一里廿四町,東岸曰琴崎,琴之東辺有壌地,曰藻木〈茂義〉」とある。元禄12年郷村帳(県史藩政編)によれば,物成58石余,戸数45・人数229(10歳以上),給人3・公役人23・肝入2・猟師24,寺3・社1,牛17・馬6,船6。また寺院は禅宗長松寺,天台宗江教寺・同宗全功寺がある。なお,この物成高には中原村の物成高の一部が含まれている。貞享年間の神社誌には,琴崎大明神・山元しこ島大明神・がうの浦・山方神・寄神・乙宮・夷・そのの神と8座があり,なかでも琴崎明神については詳細な記録がある。天明年間の神社大帳は琴崎明神を式内社胡簶神社,山元しこ島明神を式内社御子神社と考定,「津島紀事」や明治初期の「神社調査」もこれに従い,現社号が決定された。琴と舟志の境に,藤七兵衛という霊地があって,腹切藤七の伝説がある。寺院は明治4年に廃寺となったが,のち江教寺の山号と長松寺の寺号を取って復活したのが現在の琴照山長松寺で,旧江教寺の跡にある。北東の茂木は当村の枝村であるが,中原村の立村や廃村との関係で,断続的に集落が形成されたり廃村となったりした。明治4年厳原【いずはら】県,伊万里県,同5年佐賀県を経て,長崎県に所属。「郡村誌」によれば,村の幅員は東西約19町・南北約28町,地勢は「三方山脈囲繞シ,南海湾ニ臨ム,而シテ西北山林多ク,南方耕地饒タリ,一水西北ヨリ発源シ南ニ折テ浦頭ニ入ル,民家ハ其北岸ニアリ,東南ノ地稍延テ岬角ヲ為ス,琴崎ト云フ,而シテ北方ノ奥渓ハ水皆北流舟志ニ落チ,其茂木ノ浜ハ中原村ニ分ツ」,地味は「其色黒クシテ粘セス,其質中ノ中,麦・甘藷ニ適シ稲・粱悪シク,特ニ水害アリ」と記され,税地は田7反余・畑27町余・宅地8畝余・山林89町余の合計118町余,改正反別は田2町余・畑41町余・宅地2町余・山林124町余などの合計174町余,地租は米1石余・麦62石余,国税金は3円余,改正租金は155円余,戸数は本籍45,人口は男125・女127の合計252,牛27・馬46,船15(50石未満艀船)。また,神社は村社の胡簶神社・胡簶御子神社が鎮座,学校は仁田学校琴分校が設置され,生徒数は男25・女1,琴郵便局が開局されており,民業別戸数は農業43・工業1・商業1・漁業2,物産は米14石・大麦200石・小麦8石余・裸麦26石・粟1石余・大豆10石・蕎麦15石・甘藷9万斤・椎茸30斤・蜂蜜30斤・葉煙草200斤・雲丹40斤,ほかに厳原港に移出するものとして煎海鼠75斤・乾鮑80斤・鯣800斤,また九州・中国地方からの船に買付けられるものとして布海苔500斤・干和布3,000斤が記されている。同24年の幅員は東西1町余・南北1町余,戸数71・人口359(男195・女164),厩40,学校1,小船82(徴発物件一覧表)。明治38年5月27日の対馬沖海戦(日本海海戦)は上対馬の沖合が激戦場となり,琴崎の東方3マイルの海域に沈没したロシア艦隊の戦艦アドミラル・ナヒモフの生存者(士官3名・下士官兵95名)が,2隻のボートで茂木浜に上陸,投降したことから,後年この浜に「海戦記念碑」がたち,一方琴崎沖の沈没艦引き揚げ事業が今も継続されている。明治41年琴村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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