御厨屋村(近世)
江戸期~明治22年の村名。松浦郡のうち。御厨村とも書く。また,「旧高旧領」では御厨里村と見える。平戸藩領。田平筋に属す。村高は,「慶長9年惣目録」2,933石余,「元禄12年郷村帳」1,820石余,「天保郷帳」2,810石余,「旧高旧領」1,906石余。「元禄12年郷村帳」には当村の項に親村と肩書があり,御厨屋村新枝村として田代村・大崎村,御厨屋村枝村として寺之尾村・郭公尾【こつこうのお】村・板橋村・川内村・西木場村の名と各村高が記載され,さらにこれらの村々は「元禄郷帳」「天保郷帳」でも独立した村として見えることから,これらの村々は江戸初期には当村のうちであったが,江戸前期までに当村から分村したことが知られる。また,「元禄12年郷村帳」には当村内の浦として無高の御厨屋浦の名が見える。寺社としては,永照山慈光寺(曹洞宗),普門山妙音寺(曹洞宗)・平瀬山西雲寺(浄土宗),木宮神社・八幡神社・九郎神社・七郎神社・天満神社・舟津神社・若宮神社などがある。村内には,立木・寺之尾・上登木・下登木・北平・横久保・前田・田原・里・池田の10の免があるが,成立不詳。「旧高旧領」の当村の村高には寺之尾村を含んでおり,幕末・維新期までに寺之尾村は当村に合併した。明治4年平戸県を経て,長崎県に所属。同11年北松浦郡に属す。明治7年清水小学校,同12年御厨浦小学校を開設し,同14年合併して御厨小学校となる。明治12年戸長役所を前田免に置き,同14年里免へ移す。「郡村誌」によれば,村の幅員は東西10町余・南北1里15町余,地勢は「全村南北ニ延キ,東西甚タ狭ク,海岸ニ沿フ一村落タリ,西ニ竜尾川アリテ田代村ト界ヲ画シ,東方一面海ニ瀕シ,星鹿村北方ニ斗出シ,志佐村南方ニ彎出シ,一大湾ヲナシ,湾頭御厨浦アリテ数百戸檐ヲ並フ,運輸海陸ノ便ヲ占メ,薪足リ炭乏シ」,地味は「其色赤ク,田地ハ黒シ,其質ハ粘土ニシテ肥腴,稲粱ニ適シ瓜西瓜ニ宜シ,北方ハ水利便ナリト雖モ南方甚ダ乏シ,風損ノ愁ヒ少ナカラス」とあり,村内は立木免・寺ノ尾免・上登木免・北平免・下登木免・横久保免・前田免・田原免・中野免・里免・池田免に分かれ,税地は田98町余・畑143町余・宅地11町余・山林11町余の合計265町余,改正反別は田107町余・畑162町余・宅地15町余・山林71町余・原野20町余の合計377町余,地租は米685石余・金16円余,国税金は1,615円余,改正租金は2,181円余,戸数は本籍459・社10(村社1・無格社9)・寺3の合計472,人口は男859・女787の合計1,646,牛242,船34(50石未満漁船24・同遊船10)。また,学校は御厨小学校が設置され,生徒数は男90・女11,里免には郵便取扱所があり,神社は木宮神社・八幡神社・九郎神社・七郎神社2社・天満神社2社・舟津神社・若宮神社が鎮座し,寺院は曹洞宗永照山慈光寺・普門山妙音寺,浄土宗平瀬山西雲寺があり,古跡として館城跡が残り,民業は農業317戸・商工業142戸,物産は米2,376石余・麦1,500石・粟92石・大豆850石・蕎麦51石・甘薯39万2,000斤・実綿618斤・藍葉550斤・葉煙草250斤・菜種子1,016石・藺85斤・製茶340斤・鶏800羽・牛23頭とあり,これらは平戸・広島などへ輸送されると記される。明治22年御厨村の大字となる。
| KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7449435 |