菊池郡

鎌倉期になると荘園の存在が確証される。年未詳9月4日付の大蔵権少輔久経請文(民経記安貞元年11月記紙背文書/古記録)に「菊地御庄」が見える。これは菊池氏によって深川・隈府【わいふ】一帯に設定されたものであろう。文保元年12月21日の将軍家政所下文案(島津家文書/大日古16-1)では,菊池荘領家職の替として日向国高知尾荘などが島津道義(忠宗)に宛行われており,それ以前は島津氏が知行していたことがわかる。観応3年2月日に書写された安楽寺領注進状案(太宰府天満宮文書/南北朝遺3340)には「赤星庄」が見える。この荘園も鎌倉期には成立していたであろう。治承・寿永の内乱で打撃を受けた菊池氏は,承久の乱においても失地を回復すべく菊池能隆が院側に属した。その結果,本領の大半を没収されたというが(菊池武朝申状/事蹟通考),その後,「蒙古襲来絵詞」や「八幡愚童訓」よると,元寇に際しての菊池武房らの活躍が知られ,恩賞も与えられている。元弘3年後醍醐天皇が再挙すると菊池武時は大宰府に進出,鎮西探題攻略を企てたが失敗し,武時は憤死した。その後建武新政が成立すると武時の奮戦が認められ,菊池氏の旧領は安堵され,武重は肥後守に,武敏は掃部助,武茂は対馬守,武澄は肥前守に任じられた。こののち,武重は南朝方として箱根の戦に参加,菊池千本槍の伝承を残している。武敏は足利尊氏との筑前多々良浜の戦に敗北し,肥後に退いた。延元元年菊池に帰った武重は寺尾野城で兵を挙げ,九州探題一色範氏を破り肥後回復に成功,班蛇口に聖護寺を建立した。武重は延元3年7月25日付で「よりあひしゆなひたんの事」と称する起請文を書いている(菊池神社文書/南北朝遺1207)。これは後世「菊池家憲」と呼ばれ,菊池一族の合議体制のあり方を成文化したもので,惣領と庶子との関連強化を図ったものであった。正平3年菊池武光は征西将軍宮懐良親王を菊池に迎え隈府に征西府を置いたという。その時のものとして現在菊池に伝わる松囃子能がある。また,現菊池高校の前に将軍木が残っている。さらに菊池五山(東福寺・南福寺・西福寺・北福寺・大琳寺)を設定,その上に正観寺を設けた。また「菊池風土記」によると,菊池十八外城が設けられたという。菊池氏の本拠は,はじめ菊ノ池城(深川城)であったが,のち武士の時に城山台地の隈府城(菊池城)に移された。外城としては鷹取城(染土城)・虎口城などがあった。室町末期の菊池重朝は桂庵玄樹を招いて朱子学を講じさせ,文明4年孔子堂を建てて釈奠を行っている。また文明13年には隈府で一万句連歌などを行っている。その後能運が継いだが,能運没後正系は絶え,政朝(政隆)が後継となった。重臣たちは,永正2年に政朝を守護職から追い,阿蘇惟長(菊池武経)を家督に迎えたが,永正8年惟長も阿蘇へ逃げ帰ったので,次に詫磨武包を菊池氏家督にすえた。永正17年豊後の大友義鑑が肥後国の実権を握り,弟重治に菊池氏を継がせた。義武である。しかしこの義武も,天文23年大友義鎮に攻められて自害し,菊池氏は名実ともにここに滅んだ。こののち義鑑は赤星親家を隈府城主とした。天正6年竜造寺政家が進攻して隈部氏に隈府を支配させたが,同12年島津氏の肥後進攻が起こると,隈部親永は島津氏に降伏した(上井覚兼日記/古記録)。天正15年豊臣秀吉の九州平定後,隈部親永は菊池・山鹿・山本800町の支配地を認められたという(九州治乱記)。「肥後国誌」によると,「此郡古ハ南通・中通・北通ト云三通有」とあって,菊池郡は三通りに分かれていたという。また,明治初期の「郡村誌」には「中古,南通・中通・北通ノ三郷ヲ置ク」とあり,南通郷15か村・中通郷32か村・北通郷27か村をあげている。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7451180 |