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球磨郡


豊臣秀吉による九州平定後,当郡は人吉に城下町を形成した相良氏の人吉藩領となった。ただし,日向国臼杵郡椎葉山は,幕府領を経て,明暦2年から人吉藩の預り支配地となった。また中世まで日向国児湯郡のうちであった米良山は,慶長6年の徳川家康黒印状写によれば鷹巣山に指定され(相良家文書/大日古5‐2),人吉藩に属しながら旗本寄合に列され,米良氏領とされていた。当郡の村数と高は,「寛永郷帳」では35か村,ほかに一勝地谷などの谷数6で4万3,241石余うち本田2万2,165石・新田2万1,076石余,「正保郷帳」では35か村・6谷で2万2,165石うち小物成(漆・茶・桑)1,064石,ほかに米良山新開の4谷と小物成(漆・茶・綿)246石余,「天保郷帳」では72か村で4万1,816石余,「旧高旧領」によれば40か村で6万4,760石余(米良14か村を除く)。「肥後国誌補遺」には,惣軍役高2万1,192石余,村数41ほかに米良山4か所とある。諸郷地竈万納物寄によれば,宝暦・明和年間頃の村数42か村,ほかに湯前領として2か村,家数9,633うち諸奉公人602・寺社216・修験60・郷士2,864・百姓4,370・又百姓1,503など,人数(安永3年改)5万3,181,反別は水田3,936町5反余・畑882町余,高瀬船95,上羽綿19貫余が人吉藩に納められ,ほかに物産は茶3万560斤・漆292貫余・楮745貫余・椎茸6石余・木くらげ5石余・萱莚632枚・芋から135石余・山椒3斗余・筏木1,379荷・猪鹿肉150斤などで,これらは代銀納のほか収穫期に現物で人吉藩に納められている(斉藤氏所蔵文書/人吉藩の政治と生活)。寛政元年の私領御巡見教令では,人数6万156,郷中足軽以下竈数1万146,庄屋41人・横目61人・水主538人(八代在住を含む),馬1万1,267・牛7,126(相良家近世文書/同前)。寛文2~4年人吉城下の町人林正盛が人吉~八代【やつしろ】間の舟運のため球磨川開削工事を行い,当郡の物資の流通などに大きな役割を果たすようになった。また,正盛はこの工事の完成後,人吉藩から球磨川舟運に関して諸問屋の権利を得るなどの特権が認められた(人吉市史)。球磨川の水を引いて約17kmの水路を造り,上球磨地方の開田を計画した百太郎溝の開削は17世紀中頃に着工され,5期にわたって寛保3年に完成し,多良木・岡原・上村の各村などを灌漑し,のち昭和16年にはその灌漑面積は1,393町に及んだ(同前)。この工事は「御公儀様より御米一合も不申請」とあるように,その受益者農民が総力を結集して掘り通したものであった(百太郎溝掘の事/上村史)。人吉藩による幸野溝の開削は,元禄9年~宝永2年人吉藩士高橋政重が苦心の末に完成し,湯前村古城の地に台3本の隧道を掘り抜き,その総延長約2,500mは明治初期まで日本で最長のトンネルであったという(幸野溝)。明和・天明年間などの飢饉では,農民は近隣の山に入り,葛根や蕨などを採取して命をつないだといわれる。文政4年人吉藩の家老となった田代善右衛門は窮乏していた藩財政再建のため,藩士の知行米削減・副業奨励のほか,焼酎醸造を禁じ,豊後国から茸山師を招いて当郡内に茸山を育成して椎茸の増産を図り,苧・紙・楮・漆・茶・人参などとともに専売による増収を計画した。郡内の所々に設定された椎茸山は葛根などをとりに入る農民の立入りが禁じられたりしたため,その存在が農民の反感をかった。茸山は雨を好むと噂され,さらに山師が茸を作るときに,米・大豆といいながら茸木をたたくため米・大豆の精が茸木に移ったことから,雨が多く,不作になったとの風聞が天保の大飢饉に苦しむ農民の間に広まった。加えて,田代善右衛門が飢饉の時には荒糠を煎じて汁を飲むことで命をつなぐことができると述べたことが,百姓は荒糠を食えと語ったと農民に誤解された。こうして天保12年林村祇園堂での鉄砲の音を合図に,24か村,延べ2万5,000人が人吉城下へ押し寄せて町家を打ち崩すなどし,田代善右衛門は自刃した(漫録/人吉藩の政治と生活)。この茸山騒動では,茸山のほか紙・楮などにかかわる町人の家や在郷の茶屋・出店35軒も打ち崩されている(同前)。一揆勢は鉄砲の合図で進み,退く時には貝を吹き,一村ごとに木綿旗や紙旗を立て,それらの道具は前もって薩摩国で調達しているなど整然とした行動をとっている(同前)。騒動を調停した人吉藩主一門で御門葉の相良左仲は,翌年切腹させられており,田代氏と対立していた左仲が一揆の背後で指揮していたといわれる(熊本県の歴史)。当郡内では天文24年以来領主相良氏により浄土真宗が禁制とされ,江戸期にはその隠れ門徒により仏飯講・相続講の2系流が組織されて明治期まで信仰が守られた。明治2年の球摩郡物産調によれば,茶10万9,722斤余・苧30万8,313斤余・椎茸2万8,281斤余・楮9,896貫余・漆10貫余・羽綿22貫余,明治初年の人吉藩人民調書によると,戸数1万1,411うち社家129・寺院47・百姓6,352・町人557など,人口5万4,260うち男2万7,817・女2万6,443,牛7,071・馬9,255(熊風土記/人吉藩の政治と生活)。明治4年人吉県,同年八代県,同6年白川県を経て,同9年熊本県に所属。ただし,椎葉山は明治4年11月に美々津県に移管され,米良山も明治5年日向国児湯郡のうちとなり,美々津県に属した。地租改正による反別9,847町余うち田5,771町3反余・畑3,281町8反余・市街地46町5反余・宅地747町2反余,翌6年頃の穀物収穫高は米7万995石余・粟1万8,041石余・大豆2,766石余・小豆362石余・蕎麦1,895石余・蜀黍85石余・玉蜀黍3万5,706斤余・稗1,110石余・陸稲55石余・黍21石余・甘薯177万9,343斤余・苧209万1,304斤余・麻苧20万6,878斤余・綿1万7,878斤余・葉茛4万3,654斤余(同前)。「郡村誌」によれば,戸数1万1,600・人口5万2,957,反別は6万4,904町3反余うち田4,320町4反余・畑1万3,491町7反余・山林4万2,948町4反余など。同10年の西南戦争では,西郷隆盛は当郡の人吉を経て熊本に向かった。当地でもただちに人吉隊を編成し薩摩軍に加わって植木や吉次峠に転戦したが敗退し,4月末から西郷は30余日間人吉に滞陣,当郡の山険に拠って敗勢を挽回しようとした。政府軍は当郡を包囲し,各地に激戦を展開,6月1日人吉も陥落したので人吉隊も降伏したが,郡内の被害は大きかった。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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