中村(中世)

南北朝期~戦国期に見える村名。玉名郡大野別符のうち。建武2年4月3日の菊池武吉寄進状写(阿蘇文書/大日古13‐2)によれば,「肥後国大野別符内中村田地拾弐町〈坪付在別紙〉事」とあり,当村内の田地12町が阿蘇御岳大明神御宝殿の恒例三十講料所として寄進されている。同年月日の菊池武吉寄進地坪付写(同前)によれば,12町の坪付のうちに,下池尻・橋爪・下金田・兵庫町・倉光・福増・樋渡・枝・奈木町・佐奈伊岸下・上河原田・□俣・新開・□新開・□(枝カ)田・木舩前などの坪名が見え,このうち下池尻は現在の玉名市中に字池尻が残るほか,佐奈伊岸下も字岸下と関係すると思われ,また木舩前は現岱明【たいめい】町の貴船と関係すると思われる。また同年11月28日の足利尊氏下文写(御代々御墨付写/大日料6‐2)に「肥後国大野別符内中村地頭職」と見え,当村の地頭職に合屋豊後守頼重を補任している。下って暦応5年3月17日のよりしけ譲状写(薩藩旧記21所収高城文書/南北朝遺1757)によれば,「かめわう御前」に譲与した所領のうちに「一所 ひこのくにをうのゝそふ,なかむら□□の内,た(うカ)ちたミやう〈てんはく やしきてくれう〉」とあり,当村の「た(うカ)ちた名」は薩摩の渋谷氏の一族高城氏の所領であった。また,貞和5年2月8日の壱岐守輔重寄進状(清源寺文書/県史料中世1)によれば,「寄進 肥後国玉名郡大野庄内中村高瀬清源寺敷地事」とあり,当村内高瀬の地が清源寺の敷地として寄進されたことが知られる。なお寄進された敷地の四至のうちに「東限火神木堀長福寺」とある火神木は現在の玉名市高瀬の字保田木のことと思われる。正平9年4月4日の菊池武尚寄進状(同前)にも「肥後国玉名西郷大野別符中村内高瀬清源禅寺敷地」とある。さらに,応安8年3月16日の近江守平某寄進状(同前)によれば,清源寺に修造免として寄進された田地として「肥後国玉名西郷大野別符中村内田地壱町」と見え,「おちそい」「まつもと」「小別当まち」「ちやうこまち」「かきの木の下」「ミつとも」などの地名が記されている。至徳3年2月6日の刑部少輔家長寄進状(同前)によれば,当村の清源寺々領として「中村内」の田地2町5反中,屋敷地1か所が寄進されており,その坪名として「くちのつほにしのより」「おさきのまへ」「井しり」「いけしり」「竹の下」「いてのした」などが見える。このうち,「いてのした」については,現在の玉名市中に東井手下・西井手下があり,「おさきのまへ」については,現在の岱明町尾崎付近に比定される。また「いけしり」は現在の玉名市中に池尻が残る。「竹の下」は現在の玉名市繁根木【はねぎ】に竹下が残る。下って,室町期の応永4年10月6日の安富了心(直安)所領譲状(深江文書/県史料中世5)によると,康永4年に「母祇ちすわう」から了心に譲与された「肥後国大野別符中村内田地壱町・屋敷壱ケ所」などが了心から安富修理亮泰行に譲与されている。ところで,応永年間に菊池氏の一族である武楯は高瀬に進出したが,応永17年11月8日の藤原(高瀬)武楯寄進状案(寿福寺文書/県史料中世1)によると,武楯は「肥後国大野別符中村内繁根木山寿福寺稲荷大明神修理田三町」を寄進しており,当村のうちに繁根木の寿福寺が含まれていた。また応永18年3月16日の藤原(高瀬)武楯安堵状(森文雄氏所蔵文書/大日料7‐14)によると,武楯は寿福寺に対し,「肥後国□(玉)名郡大野別苻中村内繁根木八幡宮仏性(餉)田并朔弊(幣)田」を安堵しており,当村内に繁根木八幡宮も含まれていたことが知られる。さらに,同年10月10日の高瀬武楯寄進状(清源寺文書/県史料中世1)によると,清源寺修理田として「中村内田地壱町壱段参丈」を寄進し,同年頃と推定される年未詳9月18日付の高瀬武楯書下(同前)によると,清源寺灯油免として「中村新開」を寄進している。応永21年10月8日の丹治念性寄進状(寿福寺文書/県史料中世1)によると,大工丹治念性は高瀬津往反廻船の鉄物を当村内の繁根木薬師如来および八幡大菩薩の修理料として寄進している。応永26年12月18日の藤原(高瀬)武楯・宇治氏女連署寄進状案(同前)によると,武楯と氏女は「肥後国玉名郡中村内田地参段〈号横枕〉」の地を,同年月日の藤原(高瀬)武楯寄進状(同前)によると,武楯は「肥後国玉名郡中村内田地」を,応永31年11月15日の藤原(高瀬)武楯寄進状案(同前)によると,当村内の「新開〈号内田〉五反」を寿福寺に寄進している。以上のうち「横枕」については,現在の玉名市河崎に字横枕があり,「内田」は現在の玉名市中に字内田が残る。以上のことから,室町期の当村は,現在の玉名市中を中心に東は同市高瀬・繁根木から河崎の一部までわたっていたものと推定される。下って,戦国期の当村の動向は不明であるが,天文9年2月1日の豪円譲状(同前)によると,「肥後之国大野之別府中村之内繁根木山院主職并当社(八幡宮)役」を寿福寺衆徒に譲っている。なお,弘治3年3月吉日の紀宗善大野家由緒書上(清源寺文書/県史料中世1)によると,建久4年に紀国隆は御教書を得て大野に下向し250町を給されたが,国隆の嫡子時隆は「高瀬中村五十五町」を領して中村太郎時隆と称し,その子孫も嫡家として中村を名字としたが,のち当村の所領を失ったため家紋の亀甲を名字にしたとしている。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7453022 |





