荏隈郷(中世)

鎌倉期~戦国期に見える郷名。大分郡のうち。高国府【たかごう】とも号されるようになった勝津留地頭職は,大友初代能直の末子志賀能郷を養子にするという条件のもとに,備後僧都幸秀から大友能直に譲与された。この地頭職は志賀能郷に譲与されるが,大友3代頼泰は守護所高国府防衛上必要としたのか,勝津留の一職を幸秀に所望し,実質支配をする。建長6年6月5日幸秀は契約状を能郷に与え,勝津留地頭職に係る本譲状は相違ない旨を申し与えている。この勝津留の範囲は,笠和・荏隈・判田郷のうちであるとする(志賀文書/大友史料2)。この荏隈郷は,「弘安図田帳」には「国領荏隈郷 百六十町 地頭職大友兵庫入道殿」とあり(大友史料3),貞治3年2月の大友氏時・永徳3年7月の大友親世所領注進状案には「同国荏隈郷」と見えるように,大友惣領家が所帯する(大友文書/県史料26)。正応2年3月3日の宮師円清譲状によると,由原宮(賀来社,現柞原社)の季供祭文田2町,給田1町が荏隈・笠和両郷内にあると見え,正慶元年正月11日の由原宮年中行事次第では,6・7・8月の3か月の御供米9石9斗のうち,2石2斗が荏隈郷役となっている。また文亀元年12月13日の由原宮遷宮等次第記では,荒薦150枚・御桟敷3間が荏隈郷役となっている。荏隈郷内などにある由原宮季供田・三昧田・灯油田以下は,下野周防守による違乱が続いたため,宮主春清は訴訟を起こした。暦応3年9月25日の守護代稙田寂円の請文によると,荏隈郷分については,政所代首藤尊連に違乱の実否を尋問し,下地を春清に沙汰し付けたと見え(以上柞原文書/県史料9),天文23年3月の春日神領坪付には,「ゑのくまの郷内よろいてん公事銭ともに一所田二段代七百文」と見える(寒田文書/県史料9)。応永32年12月6日,大友持直は土貢30貫文の下地を由原宮に寄進し(柞原文書),永享7年8月9日には大友親綱が長野紀伊介跡10貫分を長野左馬助に預けている(長野文書/大友史料10)。大友義鎮は10月27日(年未詳)荏隈・笠和郷内の円寿寺領を法性坊に安堵するとともに,准田段銭を免じ,永禄5年頃の9月20日には准田段銭・万雑点役等を先証の旨に任せ免許している。天正10年4月10日,大友義統も円寿寺八坊抅分と役免を安堵し,天正14・15年頃の5月17日にも円寿寺中道坊領を安堵し,寛全法印をして沙汰せしめている(以上円寿寺文書/県史料9)。終見は文禄3年正月9日の由原宮主坊抅分供田注文で,経番田・御こうやしゆり田1町5反が荏隈郷と賀来荘にまたがってあったとする(柞原文書)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7455377 |